Fragments of Love - Meditation music by Singer Marcome
(video inspired by god of star)




( I recommend you to study this article and apply to social cycle of your history )

Dear
I am god salamnidam who downed social cycle theory to P. R. Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
Mitsuki translated almost books of Sarkar.
Mitsuki understands theory which I downed Sarkar more than other people.
I downed theory to Sarkar for preparation of project of Heaven and gods.
We gods of star earth had not communication with gods of Heaven.
I knew by future reading.
Translating of assistant Mitsuki has become huge significance.
Mtisuki downed documents of Heaven.
Gods of heaven and gods of star earth share both theory and understand each other deeply.
This makes strengthen our unity.

Theme of this time is social cycle of Japanese history.
This analysis of Japanese social cycle is ideal study.
I recommend you to study this article and apply to social cycle of your history.


こんにちは
私はP. R. サ-カ-に社会サイクル論をおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトは人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
ミツキはサ-カ-の本をほとんど訳しました。
ミツキは私がサ-カ-におろした理論をほかの人々よりもよく理解しています。
私は天と神々のプロジェクトの準備のためにサ-カ-に理論をおろしました。
私たち地球の星の神々は天の神々とコミュニケ-ションがありませんでした。
私は未来リーディングを通じて知っていました。
アシスタントミツキが訳したことは巨大な意味をもつようになりました。
ミツキは天の文書をおろしました。
天の神々と地球の星の神々が両方の理論を共有し、相互に深く理解しました。
これは私たちの団結を強化しています。

今回のテーマは日本の歴史の社会サイクルです。
この日本の社会サイクルの分析は理想的な研究です。
私はあなたにこの論文を研究して自分の歴史の社会サイクルに適用することを勧めます。


▼第2サイクル

◎武勇派の時代へ

 京都に本拠地を構えた平氏が財的メンタリティ(偽ヴァイシャ)となり、軟弱化して武的メンタリティを失ってしまったのを見て、源頼朝《みなもとのよりとも》は本拠地を新天地鎌倉に置いて一から町づくりをしました。
そして武士団のための組織づくりをしました。
頼朝は自分の政権基盤を固めつつ、弟の義経《よしつね》を平家追討に赴かせ、1185年に壇ノ浦で平家を滅ぼしました。

 頼朝は後白河法皇すなわち旧勢力の院に守護・地頭の設置を認めさせ、財政基盤を固めていきました。

守護は1国の軍事警察権であり、地頭は公領の管理を行なうというものです。

 1つ前の歴史サイクルの支配者であった京都における院すなわち上皇の支配と、鎌倉における新しい歴史サイクルの支配者との二元的な支配になっていきました。
次第に鎌倉が力を持ち、院との力関係が決定的に変化するのは1221年の承久《じょうきゅう》の乱でした。
後鳥羽上皇が鎌倉の2代目執権の北条義時追討を命じましたが、ほとんどの武士は鎌倉側につき、20万の大軍で京都は占領され、後鳥羽上皇をはじめとする3人の上皇が島流しになりました。
そして鎌倉の武勇派の支配権が確立しました。

◎知力派の時代

 承久の乱の少し前に、九条兼実の弟の慈円が『愚管抄《ぐかんしょう》』という歴史哲学書を書きました。
そこには、院の支配は古く、これからは武士の世の中であるという認識が書かれていました。

 1232年の御成敗式目《ごせいばいしきもく》は、3代執権の北条泰時が定めた武士の法律でした。
それまでは慣習法で統治していたのを成文化したわけです。
将軍個人に仕えるのではなく、幕府に仕えるという体制づくりが課題でしたが、ここへきて幕府という組織に忠誠心を持つ知力派の支配が確立しました。
そこに執権体制が可能になった理由があります。
将軍ではなくナンバー2が権力を握れたことは、組織への忠誠心を育てることに成功した知力派の支配を表わしています。

 この頃、鎌倉新仏教各派が活発となり、それに刺激されて旧仏教も活発になりました。
5代執権北条時頼も建長寺を造りました。

◎蓄財派の時代へ

 前述のとおり、京都と鎌倉の二元支配がこのサイクルの特徴です。
財政基盤も二元的で、農民は鎌倉の地頭と京都の国司の両方から年貢をとられていました。
次第に地頭は、武勇を背景に荘園領主(貴族)の取り分を横領していきました。
下地中分という武士と貴族で年貢の取り分を折半する決まりがありましたが守られなくなり、鎌倉の問注所(民事の裁判所)に荘園領主が訴えを起こしました。
しかし、荘園領主の言い分が認められることがあったとしても武士による貴族からの土地横領は止まりませんでした。

 この頃から商業や高利貸しが生まれ、元寇後に武士も貨幣制度に飲み込まれることになっていきました。
武士は武具を購入するなどの戦費のために高利貸しから金を借りることになり、返せない時は土地ごと高利貸しに奪われました。
これに対して鎌倉幕府は無力で与える土地はなく、武士の不満は高まっていきました。

 こうした幕府の求心力の衰えと反比例して、北条氏による全国の土地の支配が強まり、北条氏による私物化が進んでいきました。
つまり土地という財が一部に集中し、富の格差を背景に幕府への不満が高まっていきました(=北条氏の偽ヴァイシャ化)。

 旧勢力の頭目である後醍醐天皇が復古を行ない、天皇中心の国家に戻そうと倒幕運動を開始しました。
その中で足利尊氏《あしかがたかうじ》などの武勇派が台頭していきました。
足利は源氏の名門であり、警戒されていました。
そして1333年に幕府は滅びることになりました。
この出来事も平氏が滅びた時と同じように社会サイクル論では、シュードラ革命と考えられます。
しかし、この新たな武勇派の統治は確たる社会構造を打ち立てることには失敗しました。

▼第3サイクル――不完全な一サイクル

◎室町の武勇派の時代

 1333年、後醍醐天皇が、新田義貞と足利尊氏らに鎌倉幕府を滅ぼさせました。
ところが後醍醐天皇は、平安時代(900年代)に藤原氏の横暴を阻止して律令体制を立て直そうとした醍醐天皇の政治を行なおうとしました。
それは歴史をずっと昔へと逆回転させるもくろみであったため、しっかりした武家政権をもう一度打ち立てようとした尊氏と衝突せざるをえなくなりました。
衝突の背景には、後醍醐天皇の恩賞のやり方が、武士をないがしろにし、公家寄りであったために武士の不満が高まったことがありました。
結果的に後醍醐天皇による建武《けんむ》の新政は2年で尊氏によって潰されることになりました。
尊氏は、後醍醐側の新田義貞や楠木正成らによって一度は京都で敗北し、九州に逃げましたが、体勢を立て直して京都を占領し、後醍醐天皇を捕らえました。
しかし後醍醐天皇は吉野に逃げ、ここに南朝を建てることになります。
尊氏は1338年に北朝の光明天皇から征夷大将軍の地位を与えられ、新しい幕府を開きました。
しかし幕府内の内紛に追われ、南朝との戦いに疲れて54歳で亡くなりました。

 その後、2代将軍義詮《よしあきら》、管領の細川頼之らの努力によって幕府の内紛はおさまり、南朝は徐々に追い詰められ、室町に幕府を移した3代将軍義満が1392年に南北朝を滅ぼしました。
義満は1399年までに自分に反対する守護大名の力を削いでいきました。
これにより、ひとまず室町幕府による全国統一が実現し、武の必要性を相対的に低下させました。

◎不完全な知力派の時代

 歴史を逆行させようとした後醍醐天皇らと戦い、守護大名の連合政権的性格を持つ室町幕府を打ち立てた武は安定した支配体制を築くことができず、次の時代の知力派が充分に活躍できる余地が少なくなりました。

 義満の次の将軍の義持《よしもち》の時代までは守護大名とのバランスがとれていましたが、6代目の義教《よしのり》は、将軍家の権威を高めるために「万人恐怖」と呼ばれる武断政治を行ないました。
これは武勇派の時代に戻す歴史サイクルの逆行であり、社会に混乱を引き起こすことになりました。

 義教に反発した播磨国の守護大名赤松満祐《あかまつみつすけ》は1441年、自分の屋敷に義教を招き、殺害しました(嘉吉《かきつ》の変)。
その後すぐに満祐の討伐に出兵する者がいなかったことが示すように、幕府の権威は地に落ちてしまいました。

 それでも室町幕府の支配を安定化させるためには知力派を用いる必要性が徐々に高まっていました。
独裁的であった義満の後の時代には、政治の実権は宿老《しゅくろう》会議といわれる知力に優れた6人の守護大名の手に移っていました。
この6人が義教の暴走を抑えていましたが、彼らの死後、知力派が力を発揮できる体制ができず、前述したように義教の恐怖政治で社会に混乱をもたらすことになったのです。

◎蓄財派の時代へ

 南北朝時代の頃から商業がますます盛んになっていきました。
たとえば見世棚とよばれる常設店舗が登場し、連雀商人や大原女などの行商人が登場します。
明から貨幣が入ってきて貨幣経済も進展しました。

 その中で高利貸しが発達します。
年貢が払えなくて苦しむ農民にお金を貸して、暴利を貪っていました。
これを背景として1428年、正長の土一揆が起きました。
困窮した農民による「日本開白《かいびゃく》以来土民蜂起是初めなり」と記録に残る一揆でした。
その後、播磨の土一揆、嘉吉の徳政一揆、山城の国一揆、加賀の一向一揆など多くの一揆が起こりました。

 正長と嘉吉の一揆はどちらも将軍の代替わりの徳政(高利貸しからの農民の借金の帳消し)を求めたものでした。
このことが示すように一揆の背景には、蓄財派である高利貸しに富が集中することで農民が塗炭の苦しみに陥っていたことがあります。

 蓄財派の搾取による民衆の苦しみに対して、幕府はなす術もありませんでした。
8代将軍義政などは東山に豪壮な山荘(慈照寺銀閣)を建て、贅沢にふけっていました。

 1467年、将軍家ならびに管領家の跡継ぎ争いを機に、山名宗全と細川勝元が東西に分かれ、京都を戦場に11年間に及ぶ戦い(応仁の乱)を引き起こします。
その間に地方の在地の武士層が台頭し、以後、将軍家ばかりか守護大名の力も衰えて下克上の戦国時代へと突入していきます。
この戦国時代では武勇派が社会の前面に出てくることになります。

▼第4サイクル

◎武勇派の時代へ

 下克上の混乱の中から、次々と新しい武勇派が登場してきます。
織田信長は1560年の桶狭間の戦い以来頭角を現わし、1568年に京都に入ります。
京都は14代将軍義栄《よしひで》を操っていた三好氏が支配していました。
信長は足利義昭《よしあき》を奉じて三好氏を京都から放逐し、京都市内に厳しい軍律を発しました。
女性や子どもに手を出す兵士はすべて死刑にするというようなものでした。
これによって京都の治安は守られます。
その後、義昭との反目で武田、朝倉、浅井、本願寺、延暦寺などと対抗し、それぞれ制圧していきました。
1573年には義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼし、中央政界の実権を信長が握ることになります。
信長は1582年、本能寺で家臣の明智光秀に討たれました。

 その後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が光秀を山崎の戦いで討ち、ライバルの柴田勝家も滅ぼし、信長の後継者としての地位を固めます。
本願寺の跡に大坂城を築き、1587年には九州を制圧。惣無事令《そうぶじれい》すなわち私闘禁止令を出し、それに逆らったということで1590年に関東の北条氏を制圧し、奥州の伊達氏を従え、全国制覇を成し遂げました。

 しかし、二度にわたる朝鮮出兵の失敗のために豊臣政権は疲弊し、弱体化することになります。
秀吉が1598年に没した後、朝鮮出兵に参加していなかった徳川家康が豊臣政権内で力を増します。
家康は、豊臣の家臣団の中の文治派の石田三成と武断派の加藤清正や福島正則らの対立につけ込み、武断派を味方につけ、1600年の関ヶ原の戦いに勝利します。
3年後、家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。
1615年には大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、諸大名には武断政治で臨みます。
武家諸法度《ぶけしょはっと》や禁中並公家諸法度《きんちゅうならびにくげしょはっと》などを定めて政治組織を確立し、武家諸法度に基づいて福島正則など徳川に敵対する可能性のある大名を取り潰していきます。
3代将軍家光《いえみつ》の時代まで武断政治は続きました。
幕府の基礎が固まり、徳川の官僚制度が確立していく中で知力派が前面に出る時代がやってきました。

◎知力派の時代へ

 1651年に家光が没した後、11歳の幼い将軍の家綱《いえつな》を支えたのは知力の優れた保科正之や酒井忠勝らで、老中、大老を務めました。
1683年には武断政治から文治政治への転換において象徴的な出来事が起こります。
5代将軍綱吉が代替わりの武家諸法度を打ち出したのです。
これは殉死を禁じたり、末期養子の禁を緩和したりするものでした。
殉死の禁は主人が死ねば次の主人に仕えるということで、戦国時代のメンタリティから官僚的組織のメンタリティへの変化を示しています。
武勇派の時代から知力派の時代への変遷がスムーズに進んでいます。

  この頃、好学の大名が登場してきます。
保科正之や岡山の池田光政などが好例で、藩の学校を作りました。
武芸よりむしろ学問で人を育てる時代となっています。
綱吉《つなよし》の時代に幕府も湯島に聖堂を建てて朱子学を幕臣の子弟に教えました。
湯島聖堂の指導者は林大学頭として林家が代々担いました。
これら学問の奨励は、武勇派の子孫の背後で知力派が指導的地位を確立していることを意味しています。

 1657年の明暦の大火以後、幕府の財政は厳しくなりました。
商業の発達を背景に、武士層も贅沢になってきました。
知力派は自らの存在基盤を強化するために多くの儀礼を設け、そのための出費も重なるようになりました。
綱吉の時代に金山、銀山が掘り尽くされてしまったことも幕府財政の危機を促進しました。
そこで貨幣の改鋳を行ない、元禄小判、すなわち質の悪い小判を作りました。
幕府は利ざやで儲かりますが、民衆はインフレで苦しむことになります。
8代将軍吉宗《よしむね》は、力をつけてきた蓄財派である商人を抑制し、幕府の出費を抑え、貨幣本位の経済の浸透を防ごうとします。
彼は、米中心の経済を維持しようとしてある程度の成功を収め、幕府財政は貯蓄をするところまで回復しました。
大岡忠相《ただすけ》、室鳩巣《むろきゅうそう》など知力に優れた人材も積極的に活用しました。
単に登用するだけでなく、在職中はそれに見合う俸給を与える足高《たしだか》の制、上米《あげまい》の制などを実施しました。
その他、様々な改革を実施しました。
1721年に目安箱を設置し、その意見に基づいて町火消しのいろは四十七組を設立し、小石川養生所という無料の病院を作るなど庶民の暮らしにも目を配りました。
    家康の時代を模範にした30年にわたる吉宗による改革(1716年~45年)は、知力派から蓄財派への時代の移行を防ごうとしたものですが、慈悲深い心が見てとれます。
しかし、吉宗の改革は、武⇒知⇒財⇒と進む社会サイクルにおいて、知力派優位の時代を少しでも長引かせ、蓄財派優位の時代への移行を防ごうとするものでした。
そのため彼の農本主義的経済政策は民衆をかえって苦しめることになりました。
治世の後半に起きた享保《きょうほう》の飢饉の時には商人が買い占めて値段をつり上げたため民衆の打ち壊しがたびたび起き、農村では年貢の軽減を求めて一揆が頻発しました。
それまでの対農民政策は生かさず殺さずでしたが、「農民とゴマの油は搾り取れば取るほどよい」という考えになって農民収奪が強化されていきました。
食べていけない農民は小作人になるか、都市に流入することになりました。

◎蓄財派の時期へ

 吉宗の死後、脆弱な9代将軍家重《いえしげ》を補佐したのが田沼意次《たぬまおきつぐ》でした。
意次は積極的に株仲間という商人の同業者団体を認め、運上《うんじょう》・冥加金《みょうがきん》という雑税の取り立てに重点を置きました。
財政基盤として商人を重視したのです。
これらは知力派から蓄財派への時代の流れに沿った改革でした。
しかし、印旛沼の開拓などを実施しましたが、洪水で決壊し失敗します。
一方で賄賂が横行するようになり、改革は民衆の支持を得られませんでした。
天明の飢饉が起きた時も、民衆の反発から意次のせいだと受け止められ、意次の息子が賄賂がらみで旗本に殺されたことを端緒に意次は失脚してしまいました。

 次に幕府の舵取りをした吉宗の孫の老中松平定信《まつだいらさだのぶ》は、吉宗を見本にして、蓄財派優位の時代への流れに抵抗してゆきました。
正業をもたぬ農民を農村に帰そうとする旧里帰農令《きゅうりきのうれい》など農本主義に戻そうとする試みです。
すなわち幕府財政の基盤を商業の発達ではなく、農民搾取におこうとするものでした。
そして凶作の時に値段をつり上げようとする商人の抑制にも苦心します。
蓄財派を退けて賄賂などの汚職のない政治をめざしますが、農民への収奪は厳しく、都市民に対する消費抑圧政策も民衆の反発を受けた上、とくに力をつけていた蓄財派である商人にも支持されず失敗に終わります。
幕府御用学者である知力派は朱子学という学問に依拠していました。
朱子学が時代に対応できなくなる中で、松平定信は、彼らの既得権益を守るために寛政異学の禁という思想弾圧を行ない、幕府の学問所では朱子学しか教えてはならないします。

 また、定信の改革には棄損令《きえんれい》があります。
旗本御家人が札差《ふださし》という金貸し商人に借りている借金を踏み倒してよいという布告です。
幕府がお金を立て替えるわけですが、この布告のために旗本はお金を借りることができなくなり、かえって窮乏することになりました。
蓄財派である商人の力が大きく伸び、その財力に武士層は依存し、大名さえひれ伏すことになります。
大名貸という商人も現われました。
ここに松平定信の時代がすでに蓄財派優位の時代に移行していることを確認できます。

 11代将軍であった家斉《いえなり》の死後、1841年から老中の水野忠邦が天保の改革を行ない、蓄財派優位に制約を課す時代錯誤の試みをしました。
物価を高騰させるのは商人団体だとみて株仲間を解散させましたが、物価暴騰の本当の原因は生産地から江戸に入る物資の減少であったため、生産の発達と商業の自由な発達、市場原理による物価調整しか解決の道はなかったのです。
株仲間を解散したことで商品の輸送量が減少し、物価がより高騰することになります。
たとえば米は生産地から天下の台所の大坂の蔵屋敷に運ばれ、それが江戸に運ばれるわけです。
これらを取り仕切っていたのが株仲間だったわけです。

◎ シュードラ反乱の時代から明治維新

蓄財派の時代の末期は、蓄財派に富が集中することで、武勇派、知力派の一部がシュードラの生活状態に低下してゆきます。
メンタリティは武勇派、知力派であるヴィクシュブダ・シュードラが、シュードラ(大衆)を率いて反乱に立ち上がる時期でもあります。
すなわち商品経済が発展し、大商人に富が集中する一方、幕府や諸大名の出費がかさみ、彼らは農民の収奪を強めるしかなくなり、農民一揆がさらに頻発していくことになります。
すでに、1739年、蓄財派が力を増しつつある知力派優位の時代に、元文一揆がおき、村単位ではなく藩全域を巻き込む大きなものとなっています。

 1837年、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎は、門弟や町人などによる反乱を起こします。
1833年以来の天保の大飢饉で、幕府は江戸に必要な米を大坂から運ばせましたが、大坂も飢饉ですから米がありません。
幕府の命令どおり町奉行は米を江戸に送ります。
大塩は大坂の庶民のために江戸に送る米を大坂の人間に回すよう奉行に抗議しますが聞き入られませんでした。
大塩はお上よりも庶民の命を重視したわけです。
商人もこれ幸いと米を買い占めて値段をつり上げ、民衆の暮らしは悲惨になっていました。
大塩の乱は1日で潰されましたが、大塩の弟子を名乗る反乱が全国的に起こりました。
与力は幕府の役人です。
元役人の中から反乱が起きたのは初めてのことでした。

 大塩平八郎は、サーカーの言うところのヴィクシュブダ・シュードラすなわち「不満を持ったシュードラ」です。
クシャトリアとヴィプラの心をもったものがシュードラの生活に低下し、シュードラの境遇を理解し、同情を感じ、 シュードラ大衆を率いて立ち上がったものです。
反乱は失敗しましたが、大塩は、サドヴィプラ(精神性の高い革命家)の一人として数えることができます。

 この頃、外国船が日本にやってきており、日本とは何かを追究する国学が盛んになります。
これは日本の古事記などを研究することにつながり、古代の天皇治世の時代の歴史的メモリーや神話を利用するナショナルな意識が出てきます。
この知力派たちは、次の一サイクルの時代のイデオロギーを準備する役割を担いました。

 幕府は1825年に何度も異国船打払令を出していましたが、1844年、オランダのウィレム2世が幕府の将軍に親書を送り、アヘン戦争(1840~42年)で清朝をイギリスが敗ったこと、このまま鎖国を続けていると大変な目に遭うという忠告をしました。
こうした状況の中で1853年にアメリカのペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に来航しました。
翌年には日米和親条約を結んで開国することになり、1858年には日米修好通商条約で屈辱的な不平等条約を結ぶことになります。
その後、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結びます(安政の5カ国条約)。
これは国学を学んでいた志士たちを刺激し、彼らのナショナリズム感情に火をつけます。
このままでは欧米の植民地になってしまうという危機感をもった彼らは、後に、新たな武勇派として幕府を倒す運動の中心を担っていきます。

▼第5サイクル

◎武勇派の活躍の時代へ

 幕府の大老井伊直弼《いいなおすけ》は1858年からの安政の大獄により、開国に反対した人々を弾圧しました。
それに対して反開国派である尊皇攘夷派の反発は強く、直弼は1860年の桜田門外の変で殺害されます。
その後、老中の安藤信正が公武合体を推し進めますが、尊皇派の反発を買い、坂下門外の変で失脚します。

 薩摩、長州では尊皇攘夷運動が下級武士の間に強まり、薩摩は生麦事件を発端とした薩英戦争で、長州は下関4カ国艦隊への砲撃事件を機に英仏などの列強の強さを見せつけられ、攘夷が空論であることに気づきます。
長州では禁門の変や長州征伐に苦しむ中で藩論が変化し、伊藤博文や高杉晋作らが藩内の実権を握り倒幕へと進みます。
吉田松陰の門下生だった彼らは、幕府はもはや外国に対抗できないと考え、徳川体制に代わる新政府を作り、日本という1つのアイデンティティを作ろうとします。
最初は敵対していた薩摩も坂本龍馬などの仲介で長州を支援するようになります。
15代将軍慶喜《よしのぶ》が大政奉還を実行し江戸幕府は幕を閉じます。
鳥羽伏見の戦いなどの抵抗はありましたが、薩摩と長州の連合に土佐、肥前が加わった新政府軍が勝利しました。
1868年に新政府は五カ条の誓文、五榜の掲示を発布し、明治政府の方針を明らかにしました。
明治維新は社会サイクル論ではシュードラ革命でした。
シュードラ(庶民)の反乱を背景に、シュードラ的生活状態に低下したクシャトリアとヴィプラのメンタリティの持ち主がリーダーとなってシュードラ大衆を率いて、旧サイクルの権力を倒したものでした。
とりわけ武力による側面が大きかった変革であったためにクシャトリア(武勇派)の活躍が目立ちました。

 明治政府は版籍奉還を行い、藩、土地、人民を朝廷の支配下に一元化し、廃藩置県によって藩主を廃止し、元大名は華族となりました。
洋式軍隊を整え、警察制度を整え、富国強兵を進めて、国権回復、民族独立をめざします。
このナショナリズムは一方で西洋列強に向かうとともにアジアの強国としての日本の実現をめざすことになります。
1873年の征韓論はその出発点でした。
秩禄《ちつろく》処分で士族を切り捨てた政府に対する不満が佐賀の乱や西南戦争などの形で噴出しますが、いずれも新政府は武力鎮圧に成功します。

 このような武力的支配に対し、言論で戦う知力派勢力が出てきます。
板垣退助は、立志社、自由党の形で自由民権運動を発展させていきます。
1874年頃から民選議院設立に向けた運動が始まり、同年1月に建白書が提出されています。
翌75年、政府は立憲政体樹立の詔を発布せざるをえなくなります。
1877年には立志社が民選議院設立の建白を行なっています。

 明治政府は集会条例や新聞紙条例などでこの運動の鎮圧を図ります。
しかし、民衆の間では、国会を早く開設して民意を聞けという運動が強まります。
1881年、政府は、10年後の国会開設を約束します。
そして渡欧し、プロシャの憲法と議会を学んできた伊藤博文が起草した大日本帝国憲法が1889年が発布され、議会が開かれます。

 これらの自由民権運動や国会開設の運動は武勇派支配に対する知力派の運動であり、知力派の運動を財力派が支持しています。
これらの運動は社会サイクルにおける武⇒知⇒財と進む進歩の道にそっています。
大日本帝国憲法は、その歴史の流れに抵抗するこことができないことを悟った武勇派が権力を保持するためのものでした。

  ◎武勇派の力が残存する知力派の時代

 1890年11月、第1回の総選挙で野党側である旧民権派の立憲自由党と立憲改進党が勝利します。
内閣は維新で活躍し、陸軍を支配していた武勇派である山県有朋《やまがたありとも》が組織しました。
議会では知力派が主導権を握ることになったものの政府に切り崩されてしまい、実権は武勇派である政府側にありました。

 政党の力は次第に強まります。
板垣退助の率いる自由党は地主層に、大隈重信の進歩党は都市のブルジョア層(蓄財派)に支持基盤がありました。
1898年に板垣退助と大隈重信は憲政党を結成し、連合政権を組閣しましたが、内部対立により4カ月で崩壊しました。

 次の第2次山県内閣は武勇派であり、1900年、社会主義運動への対抗策として治安警察法を発布し、弾圧を強めます。
陸海軍の大臣は現役の大将、中将でなければならないという軍部大臣現役武官制も制定し、本来は去るべき武勇派は権力の中に橋頭堡《きょうとうほ》を確保しました。
これが長い間ネックとなり、シビリアン・コントロールすなわち知力派の完全支配を妨げました。
大日本帝国憲法で定められた「天皇は陸海軍を統帥する」という一句も武勇派から知力派への完全な指導権交代を妨げることになります。

 伊藤博文はその後、下野して立憲政友会を設立します。
2代目の総裁である知力派の西園寺公望《さいおんじきんもち》が1906年と1911年に組閣します。
以後、議会を重視する西園寺ら知力派と軍に依拠する武勇派との抗争の時期が続きます。
1912年には陸軍大臣の上原勇作が2個師団の増強を申し入れました。
政府にはお金がないと西園寺は突っぱねます。
上原は陸軍大臣を辞職し、後継を推薦しないという対抗策をとり、西園寺内閣は倒閣しました。
かわって陸軍の桂太郎が組閣します。
武勇派による反進歩の抵抗でした。
知力派は民衆を味方につけて反撃し、国会議事堂を囲みます。
大正政変です。
民衆の先頭に立っていたのは尾崎行雄などでした。
武勇派の桂は辞任しました。

 その後、海軍の薩摩閥である武勇派の山本権兵衛が組閣しました。
民衆に不評だった山本はシーメンス事件をきっかけに辞任し、その後、知力派の大隈重信が組閣しました。
この時に第1次世界大戦が起きました。
これは天佑《てんゆう》だとして政府はドイツの領土の南洋諸島と青島を奪います。
そして中国への利権を広げようとして対華二十一カ条の要求を突きつけます。
武勇派に抗して、知力派とその背後にある蓄財派が力をつけつつありました。 

 武勇派に抗してこの時期の知力派は蓄財派と大衆をまきこんで普通選挙運動を展開します。
平民宰相と呼ばれた政友会3代目総裁の原敬《はらたかし》首相は、普通選挙法を求める国民からは期待されました。
しかし原内閣は、それまでは直接国税を10円以上納めた男子に付与されていた選挙権の納税条件を、3円以上に引き下げただけでした。
その後、普選運動がもりあがってきます。
武勇派から主導権を奪おうとする知力派の指導する闘いであり、社会進歩の意義をもっていました。
この運動は1925年の普通選挙法に結実し、25歳以上の男子に財産の有無を問わず、選挙権が与えられました。
サーカーの社会サイクル論では、蓄財派は、お金の力で政治家としての知力派や武勇派を背後でコントロールします。
その点で、議会制度は、蓄財派が影響力を及ぼしやすいシステムであり、知力派が指導するこの普選運動を支持します。
けれども、1917年のロシア革命のインパクトは世界中に及び、将来のシュードラ革命(労働者革命)を恐れる支配層は普通選挙法が実現した、そのまさしく1925年に、共産主義者を取り締まるための治安維持法を制定します。

◎蓄財派が指導権を持つ時代へ

 明治以来の社会サイクルの特徴は、富国強兵政策の必要から蓄財派を厚遇してきたことです。
武勇派、蓄財派が繰り広げる政治舞台での抗争の背後で着実に蓄財派が力をつけてゆきました。

 1927年の金融恐慌、日本まで及んだ1929年の世界恐慌、その後続く不況の中で金融資本の淘汰が進み、三井や三菱など財閥(=蓄財派)が巨大な力を持つようになっていきました。
浜口雄幸《おさち》内閣の井上準之助蔵相は緊縮財政を敷き、産業合理化を断行しました。
今でいうリストラ、クビ切りによって生産性を上げることを狙ったのです。
蓄財派への富の集中は、一般大衆の購買力を低下させます。
この頃には労働争議が多発し、労働運動が発展していきました。
すでに1920年に労働組合主催のメーデーが日本で初めて行なわれています。
無産政党の発展もその頃からです。

 農村でも蓄財派への財の集中が進みました。
不況の中で農作物の価格が下落し、生糸の対米輸出が減り、繭《まゆ》の値段が下がります。
不況でクビになり、農村に戻った人もいます。
農民は小作人に転落し、地主がその土地を兼併していきました。
とくに東北地方の農民の状態は悲惨なものになりました。
その中で小作争議も活発になります。

 蓄財派、が背後で政治の方向を動かす時代となっていました。
政府の富裕者優遇の政策に対して不満が高まります。
蓄財派優位の時代は、同時にシュードラ(大衆)の抵抗の発展の時代です。
当時は、ロシア革命を起点とするマルクス主義、共産主義とその運動が、そのサイクルを終わらせるシュードラ革命を導く可能性をもっていました。

 急速な近代産業の発達の中で、蓄財派は国内市場が狭隘なために海外市場、そして原料を欲します。
そして蓄財派の僕となっている知力派は、大衆の貧窮化と一部への富の集中の現実から大衆の目をそらすために大衆の間にナショナリズムをあおり、軍事的対外進出が可能な状況をつくります。
サーカーはそうしたナショナリズムを説く知力派を悪魔的ヴィプラと呼びます。
1931年の柳条湖《りゅうじょうこ》事件をきっかけに関東軍が満州全土を制圧しました。
犬養内閣は満州国の建国を渋って軍部と衝突し、1932年の5・15事件で犬養は暗殺されました。
浜口雄幸も、1930年のロンドン軍縮会議で小型巡洋艦、駆逐艦の保有数をイギリス、アメリカ、日本それぞれ10・10・7、大型巡洋艦を10・10・6の比率とする条約に調印したことが軍司令部の気にさわり、統帥権干犯として軍部、政友会、右翼に非難されました。
そして1930年に右翼に狙撃され、、それがもとで翌31年に死亡しました。
犬養の暗殺によって日本の政党内閣は終わり、以後、非政党人が内閣を組織していくことになりました。

 1932年に犬養内閣の後を継いだ海軍大将の斎藤実《まこと》内閣は満州国を認めました。
国連のリットン調査団が日本の侵略だと断定し、国連で日本が撤退すべきと決議されました。
それを不服として日本は国連を脱退しました。

◎右翼知力派と偽武勇派

蓄財派の時期は、富が一部に集中し、多数の人々の生活状態が困窮化します。
悪魔的ヴィプラである右翼知力派は、富裕者個々人に民衆の困窮化の責任をなすりつけ、困窮の真の原因が社会構造にあることから、ます。そして、自分たちの影響下にある武勇派を使い、テロリズムをあおります。
そのため社会は悪化してゆきます。

 1932年、右翼の指導者の井上日召《にっしょう》が財界の指導者である団琢磨と前大蔵大臣井上準之助を弟子に殺害させた血盟団事件が起きます。
井上は「一人一殺、一殺多生」すなわちテロで支配層を殺すことで多くの人々を救えると考えていました。

1936年2月26日の雪の日、昭和維新すなわち天皇親政、軍部独裁を求める青年将校たちが、一時は議事堂を含む政治・軍事の中枢を制圧するという軍事行動に立ち上がりました。
「君側の妖を取り除く」として天皇の側にいる政府要人を襲撃し、高橋是清蔵相などを殺害しました。
彼らは東北地方の困窮した農民層出身の青年将校であり、武勇派メンタリティの持ち主です。
財閥優先の腐敗した政治に怒りを抱き、北一輝の『日本改造法案大綱』などから影響を受けていました。
以上の悪魔的ヴィプラにあおられた正義感をもった武勇派の青年将校たちは皇道派と呼ばれました。
それに対して東条英機《とうじょうひでき》や武藤章のような陸軍上層部の軍人たちは統制派と呼ばれ、2・26事件以後、皇道派は陸軍内部では消滅し、統制派の指導権が確立します。
陸軍の指導権を握った統制派の心理は、知力派であり、偽武勇派でした。
東条英機は、武勇派の息子ですが、陸軍大学校まで卒業しているように知力派であり、武勇派としてのメンタリティは失せていました。
悪魔的ヴィプラ(偽武勇派)として強硬に中国進出を主張し、1937年に関東軍参謀長になって中国侵略を拡大させました。
そして1941年に彼は昭和天皇の庇護の下に首相、内務大臣、陸軍大臣を兼任する独裁的な権力を握り、対英米開戦にふみきり、日本国民とアジア地域の人々に多大な苦難をひきおこしました。

 1945年8月15日、政府は、連合軍に無条件降伏し、日本社会は、明治以来のサイクルの終わりを迎えました。

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