Cultural Diversity One World.mp4
(video inspired by god of star)




(This is same theory of documents of Heaven)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
This time I introduce each part one by one.

Education and culture are inner side of area horon.
Horon has four dimension.
Education and culture has also four dimension.
Four dimension means inner side and outer side of collective and individual.
Education and culture itself are inner side.
But education and culture need outer side, that is, building, land, and equipment.
In this part of this article Mitsuki did not write this.
In other part Mitsuki wrote that building, land, equipment should be shared by relative workers.
This is same theory of documents of Heaven.



こんにちは
私はあなたの心の中の宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは人間のアシスタントのミツキの生涯の研究を紹介しています。
今回は各部分を一つ一つ紹介しています。

教育も文化も地域ホロンの内的領域です。
ホロンは四つの次元をもっています。
教育と文化も四つの次元をもっています。
四つの次元とは集合体と個人に内的領域と外的領域があることを意味します。
教育と文化自体は内的領域です。
しかし、教育と文化は外的領域を必要としています。
すなわち、建物、土地、施設設備です。
この論文のこの箇所ではミツキはこのことを書いていませんが
他の箇所で建物,土地、施設設備は関係する労働者の共有にされるべだと書いています。
これは、天の文書と同じ思想です。


第10章 地域ホロンの内面(教育、文化)の領域

1)地域の教育文化センターとしての小中学校へ

以上、地域について右側(心の外側)象限を考えてきました。
今度は、教育、文化やコミュニケーションなど地域の左側(心の内側)象限の主体性(エイジェンシー)と関係性(コミュニオン)について考えます。

各ホロンレベルを次のように仮に設定します。
ブロック(小学校区)、小地域(区、町)、中地域(市、郡)、大地域(都道府県)、大大地域(国)とします。
現在の教育においては、大大地域(国)ホロンの肥大化とそれよる下位ホロンの「抑圧」の病理があらわれています。
下位ホロンの自己決定権(エイジェンシー)の保障が必要です。

地域社会の内面世界の形成にあたって大きな役割を果たすのは初等・中等教育です。
江戸時代の教育は中央集権ではありませんでした。
明治の近代教育の発足以来、日本全国画一の教育がなされてきました。

今日、文部科学省が定めた学習指導要領を根拠として入学式、卒業式における「国歌」「国旗」の強制が行われ、旗の位置まで指示されているように、学校行事までも全国画一化が進められています。
それは国家ホロン以下のヒエラルヒー化です。
2005年3月の卒業式では、東京都教育委員会は、50人の教師を国歌の教育の強制に従わなかったとして処分しました。
ここには内面世界における上位ホロンの下位ホロンの抑圧がみられます。

「多様性における統一のホラーキー階層」は、天地万物の原理です。
水素原子+酸素原子(多)>水分子(一)、水分子+タンパク質の多様な分子(多)>細胞(一)です。

とりわけ内面にかかわって「多様性における統一」の階層原理が確立されなくてはなりません。
小学校区の(多)>区、町として(一)⇒区、町の(多)>市、郡として(一)⇒市、郡の(多)>都道府県として(一)⇒都道府県の(多)>国の(一)がホラーキー階層構造です。

最下部の教育の集合ホロンである各小学校の教職員に教育と学校行事について大胆に権限を与え、決定権を与えるべきです。
決定は下位から立ち上る形となり、上位ホロンの教育委員会は、より広域な地域で調整を担当すべきです。

国家ホロンが設定する学習指導要領は必要最低限の事項にとどめ、下位のホロンレベルが自己決定権をもつべきです。
そして地域に居住する様々な文化能力をもった人々とともに地域コミュニティの文化センターとしての小学校をつくりあげてゆくべきです。
地域の共通の文化的広場として地域の小学校を発達させてゆくべきです。
今日、PTAの文化活動としてなされているようなことが、生徒のP(両親)だけでなく、地域住民に開かれます。
そしてより子どもの教育にかかわったものとして展開されます。

小学校が地域の多様な文化を統合する文化センターの役割を果たすことになれば、地域の文化的人材が雇用されるでしょう。
たとえば、地域の祭りにかかわる踊りや太鼓などの音楽は地域の神社やお寺とつながりがあります。
しかし、それらも「宗教と学校教育の分離」の原則のもとで、多様な地域文化の一つとして位置づけられ、地域文化を豊かにしてゆくでしょう。

少数エスニシティも地域文化の多様性において尊重されます。
たとえば、大阪の大正区では、沖縄文化の担い手が、大阪の生野区では、韓国・朝鮮の文化の担い手が、地域の多様な文化の一翼となるでしょう。

そして地域の文化発表会は、地域住民の心を一つにする取り組みとして発展するでしょう。

小学校が地域の様々の文化(多)を統合(一)する場となることをめざすべきです。
小学校区を「含んで超えた」中学校区は、より広域の地域社会の文化センターになります。
すなわち小学校と中学校は、地域の教育・文化センターとなり、直接、教科を教える教員だけではなく、地域文化センターの育成担当者もおかれて、活動します。
学校の施設・設備の拡充も必要となるでしょう。

現在、所得格差が進むなかで高所得層は、子どもを荒れた小学校に行かせたくなくて、自由な学校選択を要求し、行政も多様な選択を保障しようとしています。
そこにまったく欠けているのは、地域コミュニティ・センターとしての学校づくりです。
大人社会の地域コミュニティが形成されてゆくことなしに、子どもたちの健全な発達は望めません

アメリカの後追いをして、株式会社の初等教育への参入までも自由化させる動きがあります。
この教育「自由化」の道は、荒れた心の子どもたちと大人たちを営利の論理のもとにおく道であり、地域社会の崩壊をもたらします。

2)すべては「私たち人類の文化」

地域社会の内面(文化、教育、コミュニケーション)のコミュニオンの側面を考えてみたいとおもいます。
「多様性における統一」という視点が大切です。
自分のアイデンティティをより深いレベルにもってゆけばゆくほど多様な文化はすべて「私たち」の領域にはいります。

自分の地域の多様な文化+他の地域の多様な文化>日本の多様な文化+世界の多様な文化>人類の文化です。

もし、自分が沖縄の人間だというアイデンティティをもつならば、沖縄の舞踊と音楽は「私たち」の文化ですが、津軽三味線は「私たち」の文化ではありません。
異文化です。
もし、自分が日本人だというアイデンティティをもつならば、青森の津軽三味線の文化も沖縄の文化も「私たち」の多様な文化の一つです。

広島県の祭りの「神楽(かぐら)の舞」は、沖縄の踊りよりも隣国の「サムルノリ(農楽)」に似ています。
回転しながら踊る点が似ているので起源が同一かもしれません。
日本人だというアイデンティティを中心に考えるならば、サムルノリは異文化です。
もし、自分が人類だというアイデンティティを確立するならば、隣国の「サムルノリ」は、異文化ではなく、「私たち人類」の多様な文化の一つです。

ここでは、文化の優劣が問題ではありません。
自分の好みにその文化の波長があう、あわないはあっても、その多様性は人類文化の豊かな内容を形作っています。
地域の文化活動を活発にさせる際に、世界中の文化を私たちの文化と受け止めて取り組むことが大切です。
文化に国境線はありません。

現在のグローバリズムの中で、人々は、すでに文化的には「人類としての私たち」に向いつつあります。
「人類としての私たち」には異文化はないのです。

「女子十二楽坊」の奏でる近代的に洗練された中国の伝統芸術は、「私たちの文化」として中国の文化を感じさせました。
「冬のソナタ」をはじめとする韓国の映画文化は、「私たちの文化」としての韓国文化を感じさせました。

カチューシャなどのロシア民謡はすでに「私たちの文化」になっています。
インディオ音楽に起源をもつ「コンドルは飛んでゆく」も「私たちの文化」になっているのではないでしょうか。
あまりに私たちの心を打つので「異文化」という響きはありません。

もちろん西洋やアメリカの文化はすでに「私たちの文化」として、あふれるほど流通しています。

あわせて現代の文化的なグローバリズムの問題点を指摘しておかなくてはなりません。

アメリカ映画は、最近、黒人など白人以外の登場人物を必ず登場させています。
アメリカ国内の「人種的多様性の統合」の試みとして進歩的な取り組みであると考えます。
しかし、God Bless America(神はアメリカを祝福する)という考えがニューヨーク・テロ以後に高まっているように、アメリカ人中心思考が多くの映画に浸透している限界を感じます。
「人類全体の多様性の統一」という視点は、私が見た範囲のアメリカ映画からは伝わってきません。

アメリカ人や日本人としての自国中心思考に冒された「私たちの文化」ではなく、人類としての多様な「私たちの文化」の創造を激励し、称揚してゆかなくはなりません。
おそらくアメリカにも日本にもそのような作品が登場しつつあると推測します。
そうした作品を見出し、広めるべきです。
たとえば、私の見るところ「風の谷のナウシカ」をはじめとする宮崎作品は、普遍的な人類文化になりうる要素をもっています。

文化は、私たちの心を無限に拡張してゆくことに貢献すべきです。
宗派主義、党派主義、自国中心主義など、あらゆるグループ中心思考から、私たちを世界中心思考に成長させてゆくことに貢献すべきです。




H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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