United 4 IRAN
(video inspired by god of star)



(This view leads to eternal peace planet earth)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant of Mitsuki in whole life.
This part is identity based on religion should be changed universal identity.
This point of view of Soroush is very important in this world.
This view leads to eternal peace planet earth.

こんにちは
私はあなたの心の中の宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトのプロジェクトは,人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
この部分は、宗教にもとづくアイデンティティは普遍的なアイデンティティに変えられるべきだ,です。
ソロウシュのこの観点は,今日の世界できわめて重要です。
この観点が、永遠平和の惑星地球をもたらします。




第5節 アイデンティティ論

第1項 イスラムのルーツに立ち戻ることを説いたイラン革命のイデオローグたち

イラン革命は、すでに述べたように一方でホメイニーに体現される「絶滅寸前の伝統階級の生き残りをかけた荒々しい叫び」と他方でアりー・シャリアティに体現される「近代的諸階級によるより大きな政治参加をもとめる不運な企て」であった。
彼ら両階層のイデオローグは、めざした方向は異なるが、どちらも西洋文化に毒されているパーレビー・シャーに対峙させて、ムスリムとしてのアイデンティティ確立を重視した。
アリー・シャリアティは、自分たちのルーツを忘れて西洋文化に毒された知識人を厳しく攻撃し、イスラムのアイデンティティに立ち返ることを説いた。
またイラン革命の勝利は、このような宗教原理主義をイスラムの内外に広めた。

第2項 アイデンティティは宗教の産物であって目的ではない。

ソロウシュは、そもそも預言者は、アイデンティティの危機から人々を救うためにやってきたのではなく、真実を伝えるためにきたのだとして、宗教がアイデンティティを追求することの間違いを指摘する。
「・・・イスラムは、本来、人間に自分たちでは手にすることのできない確かな真実に人間を導くために存在するのか、それとも、単に特徴ある文化としてムスリムのアイデンティティを形成させる道具であるのかについてムスリムはあらためて考えなければならない。・・・
真理の探求とアイデンティティの探求の微妙な違いをはっきりさせるべきである。...
預言者の主な使命はアイデンティティーの危機から人間性を救うためにやってきたのではなかった。
目的は人間に聖なる真実を伝えるためであった。
もちろん人々がある共通の真実を受け入れることで、彼らは新たな集団的アイデンティティを持つだろう。
それゆえ統一されたグループとして識別されるだろう。
だからアイデンティティは宗教の産物であって、宗教の目的ではない。」39

第3項 アイデンティティ追求の宗教の問題点

[問題点の一 紛争状態に導く]

ソロウシュは、ムスリムの思想家が西洋文明への対決のためにイスラムのアイデンティティを追求したことはイスラムにとって有害なのだと考える。
どんな問題がおきてくるか。

その一つは、アイデンティティを排他的に追求することは、相手を認めず、紛争状態に導くことである。
「アイデンティティを排他的に追求することは、真理の探求をネグレクトさせてしまう。
それどころか、アイデンティティの探求者は、ほとんど互いに相手を認める余地を持たないから、究極のところ紛争状態にならざるをえない。
けれども、真実の探求者は、お互いを相互に必要とする。
このため互いを理解しあう。明かりの光線のように真実は等質であり、すべて同じ家族である。
アイデンティティの追求者は、不可避的に拡張主義者である。
ライバルの権利を認めることができない。
そして遅かれ早かれ、互いに闘争に巻き込まれてゆく。」40

このようにアイデンティティのイスラムは、真実の信仰を失ってゆくのであるが、イスラムの真実をもとめた結果として生じたアイデンティティについては紛争と対立をもたらすものではないと次のように言う。
「真実のイスラムは、真実についてのみのイスラムの解釈である。
たといアイデンティティが結果としてつくられたとしても、それは、その結果として生じたものである。
このイスラムはすべての種類のイスラムと調和する。
それはどんな民族 や文化の利益のためにも使われない。
それは対話の扉を開いている。
そしてその信者はアイデンティティーの源としての実利のためにではなくその真実性のためにそれを求める。」41 .

[問題点の二 停滞に導く]

問題の二つ目として「ルーツにかえろう」という発想は、外部起源ものに精通しないことにつながり、停滞と偏狭を導いてしまう。
「『ルーツにかえろう』『忘れられた起源を掘り起こそう』『勇気ある自覚ある指導者を見いだそう』のようなモットーは非常に紛らわしい。
改革は、伝統的な仮説を読み変えることなしには起きない。
もし伝統と啓示の外で新しく発展した思想に十分に精通していなかったら、どのような読み変えもなされることはできない。
内部と外部の発見は、遅かれ早かれ、均衡に達する。
停滞を乗りこえるためには、外部の起源のものを動員しなければならない。
ムスリムの聖なる源泉の退廃的な理解は、文化的社会的文明的な全般状況への彼らの退廃の結果としておきているのであって、その逆ではない。」42

[文化的ルーツを単一のものに求めるのは事実に反している]

ソロウシュは、そもそも自分たちの文化的ルーツを単一のものに求めるのは事実に反し、他の文化に不寛容な人間を作ってしまうと考える。
自分たちの文化的ルーツを探ると、実際は単一の起源に向かう排他的なものではない。
日本の文化が自分たち独自のものとインド、中国、西洋起源の文化の後継者であるように、イラン文化も異なった系列の文化の後継者であった。
「イラン人は三つの文化の後継者である。
前イスラムのペルシャ、イスラム、そして西洋である。
どれかが上にあるものではなく、イラン人はこれら三つを調和させることを考えるべきである。」43
このように事実を認識することによってイラン人は、それらの文化的相違により寛容になることができると主張する。

第4項 イスラムを真の復興に導く二つの方法

ソロウシュは、真のイスラム復興をめざすイスラミストである。
しかし、原理主義者がやるようにイスラムを政治的に利用して外観上イスラムの復興なしとげることがイスラム復興でないと考える。
ソロウシュによると真のイスラム復興には次の二つの道がある。
ネガティブな復興とポジティブな復興である。
「ネガティブな復興主義は、外部要素を宗教の実際の理解から浄化することである。
そしておろそかにされた分野をより正当に取り扱ってゆくことである。
たとえばアル・ガッザーリーである。
それに対してポジティブな復興主義は、聖典の理解を規定するその時代の宗教外の要素にいっそう関心を向けることである。
この方向の著名な代表者はイクバールである。
彼は、イスラム文化にたいするギリシャ思想の優越性を批判されている。
両方とも同じ目的に奉仕する。
すなわち宗教のメッセージを活性化することである。」44

そして、ソロウシュは、現在のイスラム復興のためにはポジティブな立場を強調する。
「私は強調したい。われわれの時代の宗教の改革は、もし、思考の別の分野の継続的な新しい発展に注意を払わないならば、成功することはできない。」45
 なお、ソロウシュの言うネガティブな復興主義は、純粋に内面的な信仰に目覚めることであって、決して原理主義的な意味でなはい。

第6節 イスラムにおける民主主義、自由、人権

第1項 イスラム民主主義論

ソロウシュは、イスラムは民主主義と両立可能であるばかりでなく、「それらの連携は避けられない。イスラム社会では、民主主義のないイスラムは完全ではなく、イスラムのない民主主義も完全ではない。」と主張する。
そしてイスラム民主主義の基礎として次の二つをあげる。

第一は、真の信仰のためには、それが自由意志にもとづくものでなくてはならないことである。
そのためには自由が保障されていなければならない。
「真の信仰者であるために、人は自由でなければならない。
圧力や強制を加えられて信仰するのは真の信仰ではないだろう。
そしてこの自由は民主主義の基礎である。」
だから、イスラムは国家によって押しつけることはできない。
理想的なイスラム国家は、大多数の国民の信仰と意志によって形づくられるべきで、信者も非信者も含む多数によって選ばれたときのみ正当なものだと考える。

第二に聖典の解釈は変化するものであるから宗教的複数主義を必要としていることである。
「聖典の解釈は常に変化の状態にある。
だから、誰も決して固定した解釈を与えることはできない。
誰もが解釈する資格がある。あるものは他のものより学識があるけれども、だからといってその解釈も自動的により権威があるというものではない。」46

すなわちウラマーであろうと政府であろうと公式の解釈を押しつけることはできず、民主主義が保障されてこそ経典解釈がより発展し、宗教理解が進むということである。

第2項 宗教的民主主義国家

[宗教のイデオロギー化に反対]

経典自体は不変で神聖であるが、経典理解はあくまでも人間の認識であり変化するものである。
だから公式の解釈、国定の解釈はありえないのである。
したがってソロウシュは、宗教のイデオロギー化に反対する。

イスラムが包括的なマルクス主義に相当するような世界観をもちイデオロギー的性格をもっているということは一般的に指摘されていることであるが、ソロウシュは、宗教はイデオロギーではないと言う。
「宗教的イデオロギーの発想はそれを全体主義にする。
宗教の解釈は複数ありうるので宗教は公式の解釈者を必要としないのに、イデオロギーは、解釈の公式の階層を必要とするからである。」47 、
アリー・シャリアティは近代派の立場からイスラムの教義をイデオロギーと考えた。
彼は聖職者の存在を否定する立場だったが、ソロウシュは、シャリアティのように宗教をイデオロギーとしてみれば、結局、意に反して解釈のための公式の階層を必要とすることとなると批判する。

。 また、宗教がイデオロギーと等置されれば、宗教は本来、紛争を悪化させるために存在しているのではないにもかかわらず、武器として使われ、敵を生み、敵を求め、愛を強調するより憎しみを強調することになると主張した。

[宗教国家の二つの概念] 

イスラムの公式の解釈者はありえない故に、誰も先験的に統治の権利をもたない。
統治の根本原則は宗教的ではない合理的アプローチを求めているとソロウシュは主張する。
彼の宗教国家の統治のイメージは次のようなものである。

「・・・第一の意味においては、主に「統治」があって、それから「宗教」である。
ところが、第二の意味においては、主に宗教的実体があり、それから統治である。
彼は最初の概念を強調した。
「統治する」とは、安全、法と秩序、正義、福祉、雇用などの社会の基本的な事項を管理するすることをまず第一に真っ先に扱うことである。
科学、芸術、宗教のような二番目に必要な事柄が、市民自身の共同の参加によって成し遂げられるべきである。
すなわち、宗教的な統治は、宗教的社会から生ずるものであり、市民の必要性に奉仕するものである。」48

[統治と服装] 

したがって、女性の服装を政府が強制するようなことは、仮に宗教的な倫理に由来するとしても、本来、政府が押しつける事柄ではないことになる。
またソロウシュ自身、服装はイスラム信仰にとって非本質的な事柄だと考えている。
「公的な場所で女性の服装がすべて黒くなければならないということはイスラム(の教え)にはない。
私は以前、マレーシアで教えたことがあるが、ムスリムの女性は非常にカラフルな服装をしていた。
そして宗教指導者もそれに問題を感じていなかった。
イランで我々がもっているのは、一グループの悪い趣味である。」 49

[政治と宗教の分離の論点] 

政教分離についてソロウシュは次のように述べている。
「世俗的社会が、世俗的法律のもとで適切に機能しているように、宗教社会は当然、政府の宗教システムを必要とする。
それゆえ政教分離の論点は強制されるべきものではない。
もしこの分離が起こらざるをえないなら、当然それは起こるだろう。
宗教を熱烈にその心になお持っている社会に上から押しつけられることは解決ではない。
少なくともそのような押しつけは非民主的である。」
イスラムが聖教一致という体質をもった宗教であるためにこの点でソロウシュは歯切れが悪いようにも思える。
しかしイスラムを政教一致の宗教として大衆が信じている限りは、パーレビー・シャーが政教分離を権力的に強硬するような形で社会に押しつけることはまさしく非民主的であった。
ソロウシュのように大衆のもつ宗教観の改革からはじめることは理にかなったことである。
ソロウシュのめざす方向は事実上の政教分離であり「強力な国家(state)と法による統治(rule of law)を実現し、その結果として宗教は、いくつかの古い社会的機能に限定されるようになるべきだ」50 と考えている。

[ヴェラーヤテ・ファギー論] 

ヴェラーヤテ・ファギーは、現在のイラン国家の根幹であり、いわば戦前の日本の国体にあたる。
インタビューに答えて次のようにソロウシュは答えている。
「私にとって ヴェラーヤテ・ファギーの理論は、それを支持する人もあるし、批判する人もある(イスラム解釈の中の)ひとつの理論である。・・・
私は政権を担当している人に誰にも不服はない。
正当化の根拠づけは、権力をにぎる以前にはやってこない。
それはその後でくる。・・・今日は、我々がどのように統治されるかが、誰が統治するかよりも重要である。」51

ここには、ヴェラーヤテ・ファギーも人間の解釈で生まれた誤謬を含んだ一つの理論であり、必ず変化する日が来るのでそれを待とうという姿勢が見られる。
政治家ではないソロウシュは、今の聖職者政権を倒そうとは言わない。
しかし、ソロウシュの議論は、聖職者たちには、その存立基盤を脅かすもの映る。
最高指導者のハメネイもソロウシュ批判をせざるをえなかった。
ヴェラーヤテ・ファギー論に必ず終わりが来ると信じるソロウシュの議論を再確認しておこう。

経典は、不変で聖なるものであるが、啓示の解釈・理解は、人間の属するものであり、自然と社会に対する人間の知識や理解の深まりの中で変化してゆくものである。
これまでの宗教の歴史は正誤を含んだ解釈と再解釈の歴史であった。
神の啓示は絶対であるが、過ちを含む人間の解釈は限界のあるものである。
ホメイニーのヴェラーヤテ・ファギー論も限界をもった人間の理論の一つにすぎない。
したがってホメイニーの解釈を信じる人が宗教共同体にその論を押しつけることはできない。
宗教的複数主義が尊重されるべきで、また聖職者という特別の階級が自分たちの解釈が正しい神の法であると国家権力を通じて社会に押しつけることもできない。
特別の階級が解釈の独占権を持っていないからである。

「ライセンス(解釈権)の拡大は支配階級としての ウラマーの考えと矛盾しませんか?はい。
啓示された聖典を解釈することができる人は誰でも 学者alim である。
我々はウラマー が聖典を解釈するべきだと言うべきではない。
むしろ、誰が聖典を解釈するとしても、その能力がある人は学者である。」52

以上が、ソロウシュによるヴェラーヤテ・ファギー論の論駁である。

さらに誰も特定の宗教解釈を押しつけることはできないという主張にとどまらず、ソロウシュは、イスラムにおける聖職者の存在自体を否定する。

「もうひとつがイスラムには ウラマーの公式の階級がないということである。
牧師 clergyはウラマーと同義語ではない。
ウラマーの定義はそれより広い。私が説明したように、啓示を解釈することができる人々をすべて含んでいる。」53

「・・・しかしながら、神とその預言者の名前で自分たちを崇拝させるように導く集団が現れる。
彼らは、神とその創造物の間の覆いとなってしまった。
その集団が、神と預言者の名前ですべての権限を主張するとき、彼らは自由の剥奪者となる。」54
このようなレベルの聖職者否定は、アリー・シャリアティの言葉にも見られるが、ソロウシュの議論は認識論に支えられているから説得力のあるものになっている。

そして聖職者は、自分の職分を狭く限定すべきであると次のようにソロウシュは述べている。
「理想的なイスラム民主主義では、聖職者はアプリオリに統治の権利をもっているのではない。
平等権の保障された法律の下で選出される人によって国家が運営されるべきである。・・・
宗教指導者は、伝統的に国家(たいていのスンニ派)あるいは人民( シーア派)から金銭的援助を受け取ってきた。
この場合、聖職者は、(純粋にコーランと信仰に基づくよりも)国家の見解あるいは人民の見解にとらわれてしまいがちである。
聖職者はそこから「自由」になるべきである。
宗教的天職は、ただ、宗教への真正の愛のためであり、そのために仕事をする人々のためのものである。
誰も宗教の基礎のうえに政治権力を主張したり、社会的地位を得たり、生計を保証されるべきではない。
聖職者も・・・学問、教授等々の仕事を通して他に依存しない収入を得るべきである。
このような独立性のみが、イスラムが折衷物となることを防ぐことができる。」55 、






H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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