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(Marx used dialectical materialism like as Mitsuki understand as nature philosophy which see both of material world and consciousness world)

This article is highest understanding about philosophy of Marx.
Mitsuki had reached view of documents of Heaven before down.
Mitsuki overcame mistranslating of "existence defines consciousness "by reading "Oekonomisch-philosophische Manuskripte" deeply.
Marx used dialectical materialism like as Mitsuki understand as nature philosophy which see both of material world and consciousness world.
Mitsuki found truth of Marxism.
This article is highest understanding about philosophy of Marx in human society.

この論文はマルクスの哲学について最高の理解です。
ミツキは天の文書の観点に受け取る前に到達していたのです。
ミツキは、『経済学・哲学草稿』を深く読み込む中で「存在は意識を規定する」という誤訳を乗り越えていたのです。
マルクスは、ミツキが物質世界と意識世界の両方を見る自然哲学として理解した内容で弁証法的唯物論を用いたのです。
ミツキはマルクス主義の真実を見いだしていたのです。
この論文は、人間社会の中でマルクスの哲学についての最高の理解です。




マルクスを考える 不破哲三

(1)
不破氏の『マルクスは生きている』第一章について
「唯物論の思想家マルクス」という見出しは
間違いではないかと論じて
1844年のマルクスは観念論者でもなく唯物論者でもないと
述べている個所を紹介しました。

「ここにおいて、貫徹された自然主義あるいは人間主義が
観念論とも唯物論とも異なっていること、
また同時に、それがこれら両者を統一する真理であることを
われわれ見いだす。
同時にわれわれは、このような自然主義だけが
世界史の行為を概念的に把握する能力をもっていることを
見いだすのである。」
カール・マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫205ページ

(不破氏の本『マルクスは生きている』の内容を批判的に論じさせてもらっていますが
それは決してこの本がすぐれた書であることを否定しているわけではありません。
マルクスの思想をとても実践的に生かす著書となっています。
しかし、私は政治的な文脈と切り離して
「含んで超える」立場から摂取しつつ、論じることは
意義あることだと思うわけです。)
未来社会論を考えるにあたっても
マルクスの唯物論と観念論を含んで超える自然主義
という立場は重要だと思います。
存在と意識、物質と観念に分けて、どちらが根源かと問題を設定して
研究方法ではなく世界観として唯物論を採用すると
労働者の「存在」を社会的所有のもとにおけば
意識はそれに対応して
自分たちの職場や地域を自分たちのものと
感じるだろう
という幻想の上に政策を立案してゆく可能性があります。
すなわち
労働者個人個人の持ち分の明確な協同所有の段階が
必要であることをドロップさせてしまうことになります。
現在、21世紀の社会主義をめざしている
ベネズエラのチャベス政権をのぞいて
これまでのすべての社会主義国は、
労働者個々人が明確な持ち分を持つ協同所有の段階なしに
国有なり、集団所有なりにすれば
労働者の私的所有の願望はなくなるという
幻想をもって政策を実施しました。
しかし、ほとんどの「社会主義」国が、
私的所有に回帰しました。
旧来型「社会主義(=国家資本主義)」は
完全に破綻しました。
私的所有の意識の克服を、
「存在は意識を規定する」という唯物論的世界観から
読み取ってしまったゆえの
世界史的ミスではないかと私は推測するのです。

(2)
①資本主義的株式会社⇒
②労働者の持ち分が明確な協同所有の企業(協同組合)⇒
③労働者の持ち分が不明確な共同所有の企業
というふうに、
②の持ち分が明確な協同所有の段階が長期に存在することは
必須のプロセスだと思います。
③の段階は、自然、天地万物は、すべての人類と生命世界の共有であるという
高次の意識段階に労働者たち(少なくともそのリーダー層)が
達した時に可能になります。
①資本主義的株式会社の次に②をとばして
③が可能だと考えることには
無理がありました。

(2)
個人の意識発達も、集合体の意識発達も、
独自性をもって弁証法的(ホロン的に)発達してゆきます。
マルクスが社会の経済的土台の発達を自然史的過程として
緻密な実証と論理で論証したように
ケン・ウィルバーは、意識面の発達過程を解明しました。

彼の著作の中で紹介されているアメリカのコーワンという学者の
現在の人類の意識段階の調査研究によれば
①自己中心意識段階の人々は、人口の30・1%(勢力としては6%)
②自グループ意識段階の人々は、人口の40%(勢力としては30%)
③科学的合理段階の意識の人々は、人口の30%(勢力としては50%)
④多元多様性段階の意識の人々は、人口の10%(勢力としては15%)
⑤多元統合段階の意識の人々は、人口の1・1%(勢力としては6%)
(ケン・ウィルバー『万物の理論』春秋社32~40ページ)

人間の意識はこのすべてのレベルを潜在的にもっています。
発達段階はどれが前面の意識として出てくるかです。
利潤を高めることの最大目標とする資本主義経営システムは
労働者間の競争を出世と報酬の差であおり、
①自己中心意識を活性化させます。
さらに企業間競争を「勝ち組み、負け組み」とあおり、
②自グループ中心意識を活性化させます。
同時に企業間競争に勝つためには
③段階の科学的合理的意識の発達を幹部職員や技術開発の部門では
必要とすると思います。
しかし、それも、地位と報酬の激しい競争にさらされ、
①と②の意識レベルを刺激されます。
それは彼らの内面的な苦悩を引き起していると思います。
人間の意識が③④⑤への進化するにつれて
①と②をあおる資本主義的生産様式は耐え難いものになります。
したがって、私は人類の意識進化によって
必ず資本主義的生産様式は消滅する日が来ると考えています。
(唯物論的見方では、この側面を観ることができませんが
マルクスの唯物論と観念論を統合した自然主義なら
このテーマを視界に入れることができます)

(3)
マルクスの『経済学・哲学草稿』には
低次レベルの意識段階の人々による粗野な共産主義批判と
それに対する私有財産を「含んで超える」
高次の意識形態の共産主義を対比して述べています。
マルクスには意識発達レベルが考察の視界の中にありました。
次のように述べています。
「妬みこそ、所有欲がそこで再生され・・・
粗野な共産主義者は、頭の中で考えた最低限から出発して
こうした妬みやこうした均分化を完成させたものにすぎない。・・
教養と文明の全世界が抽象的に否定されていることが
すなわち私有財産を超え出るどころか、
いまだかつて私有財産に達したこともないような
貧困で寡欲な人間の不自然な単純さへと
帰還するものであることが、まさに証明している」
マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫128ページ

すなわち、①自己中心段階、②自グループ中心段階が
主要な意識レベルにある人々の生産を
「社会化」=集団化して均分化しても
ソ連や中国などで見たように勤労意欲はでてきません。
逆に、そうした人々を働かせるためにノルマと
強制、コントロールが必要になってきます。
そこにはマルクスの言うように
「いまだかつて私有財産に達したこともないような」人々が
いました。
(たとえば、ロシアのミール共同体)
協同組合所有のような個人所有の結合によって
私有財産にまず達することが必要だったのだと思います。
(レーニンのネップの試みはこれを意味していたのだろうと思います)

(4)
「存在が意識を規定する」という唯物論の観点からは
人間の意識拡張に独自の発展法則があることが
ドロップしてしまいます。
私たちは目の前の現実の人類の意識発展段階から
出発して人類の未来を構想する必要があります。
①自己中心、②自グループ中心の意識段階の人々
も心から納得するのは
自分が持ち分をもった協同所有の形です。
そして資本主義を超える際に
リーダーシップを握る③④⑤の人々も
心の内部に①と②の段階をもっています。
それゆえ協同所有の形態なら、
ほとんどの人々が、心から納得して
資本主義を超える「結合労働」(マルクス)の社会を
受け入れることができると思います。
もちろん少数の既得権益をもつ人々が①の自己中心意識から抵抗するでしょうが
マルクスの「唯物論と観念論を統合した自然主義の哲学」を身につけると
こうした意識拡張の発達レベルが視界に入ってくると思うのです。

(5)
高次の意識段階による
私有財産の止揚としての共産主義に
ついてマルクスは次のように語っています。
「社会的すなわち人間的な人間として
人間の意識的に生まれてきた、
また今までの発展の全成果の内部で生まれきた
完全な自己帰還としての共産主義
この共産主義は完成した自然主義=人間主義である。
それは人間と自然のあいだの
また人間と人間との間の抗争の真実の解決であり・・」
同書131ページ

ここでマルクスが述べている
「完成した自然主義=人間主義(共産主義)」なるものを
意識拡張レベルで考えると
①自己中心②自グループ中心の意識発達段階ではありません。
その発達段階では、自然と人間の抗争(環境問題)と
人間と人間の抗争(貧困、戦争)の解決はありませんから、
マルクスのイメージには
高いレベルに意識拡張した人間が想定されています。
マルクスはここで人間の意識発展の高次のレベルを
語っています。
私の言い方でより具体的に述べると
⑤多元統合の意識段階の人々がリーダーシップをとって
④と③の人々を「多様性おいて統一」して
①②の人々の意識拡張を促すような
協同的生産を組織運営している世界です。
人類の発達で、①自己中心②自グループ中心の人がいなくなる
イメージをするのは幻想です。
①と②の人の人口全体における割合が減ってゆくのだと
思います。

(6)
なお
マルクスの「私有財産の積極的止揚」の止揚の訳のもとのドイツ語は
アウフヘーベンだと思います。
それは、私有財産を否定することではなく
私有財産を「含んで超える」という意味です。
この意味でも
「①資本主義的株式会社」の次に
社会的所有(集団所有)の
③労働者の持ち分が不明確な共同所有の企業
が来るのではなくて
②労働者の持ち分が明確な協同所有の企業(協同組合)の
段階がどうしても必要だと考えます。

(7)
マルクスが意識拡張段階の高いレベルの人々の世界として
未来社会を構想していただろうことは
いろいろな個所からわかります。
「人間を人間として、また世界に対する人間の関係を
人間的な関係として前提してみたまえ、
そうすると、君は、ただ愛とだけ、
信頼を信頼とだけ、
その他、同様に交換できるのだ。」同書、186ページ

世界に対する人間的関係をもてる人は、
高次の意識レベルの人です。
マルクスは人類社会の経済的発達の側面を集中的に研究し、
大きな成果をあげたわけですが
弁証法的自然主義にもとづいて
人類社会の意識面の発達レベルまで研究するには
人間の寿命が足りなかったと思います)
①の意識レベルを②に、②を③に、③を④に、④を⑤へと
意識拡張をたえず促してゆく生産システムとして
資本主義を超えたシステムを構想する必要がありました。
それに適合するシステムは協同組合ネットワークの
経済システムでした。
競争ではなく、協力を原理とします。
決して国有や集団所有ではありませんでした。
マルクスは、国有や集団所有を念頭においていたのではないと
思いますが、
意識発達レベルの研究がドロップしたので
そうした方向への解釈の余地を残してしまったのだと思います。

(8)
唯物論的世界観から
意識発達レベルの科学的研究を視界からドロップさせたことは
革命論においても、
社会主義革命によって資本主義を超える
「社会主義経済の実行」が可能だという
幻想を生み出したのではないかと思います。
資本主義を超える哲学を構想したサーカーは、
「資本主義は花火のように崩壊する」という言葉と
「資本主義は老衰して死んでゆく」という言葉の
相反する言葉を残しています。
私は前者は、資本主義体制に対して
資本主義を超えようとする考えをもった人々が
革命に成功することを意味していると思います。
(これは世界的に考えるとそう遠くないのではないかと思うのです)
後者は、資本主義企業システムが
徐々に住民参加型地域民主主義経済と
労働者所有の協同組合的民主主義企業ネットワーク
置き替わってゆく長期のプロセスをあらわしていると
考えています。
経済(物質)と意識(観念)は対応しており
この両方を統合するマルクスの自然哲学の立場に
たつならば
政治権力を奪取した社会主義者が
「社会主義革命」とネーミングしたからといって
労働者、住民の意識拡張レベルは同質の段階にとどまりますから
生産場面の意識において、資本主義よりも、
労働者はインセンティブを失います。
そこで
「社会主義?(=国家資本主義)」経済の
中央集権の悪い面が前面にでて
労働者に対して抑圧的な国家としての側面が
前面にでてこざるをえなくなると思います。
したがって、
当面の革命を民主主義革命として
資本主義を超えようとする人々が協力して
政権奪取した方がいいと思うのです。
そして経済システムが資本主義を超えるのは
国民の意識拡張の長期の視野の中で
資本主義が徐々に死滅してゆき
より高次の経済システムに置き替わるように
戦略を設定する方が賢明だと考えているわけです。
最初から最後まで徹底的に合意を形成してゆく形で
歴史を前進させてゆく方が
万人の福利にかなっていると思います。



補足
マルクス主義で意識が問題にされたのは
労働者の要求闘争の中での階級意識の発展として
「即自」すなわち階級意識が眠っている段階
「対自」すなわち階級意識に目覚めた段階
だと思います。
これは次のように解釈しています。
労働者のリーダーが自己献身的に
仲間の利益を守る闘争の中で
より広い連帯、すなわち
①の自己中心の要求から、
②の自グループ中心の仲間との共通の要求に目覚め
さらには③の合理的科学的な意識レベルに
要求の質を成長させて、
広く国内外の労働者と連帯してゆきます。
すなわち、労働者の階級闘争の展開の中で
③の合理的世界中心的思考段階までは
発達させるわけです。
しかし、
③を超えて⑤の多元統合に意識レベルを発達させないと
③のスタンスは、真理は一つですから
他の真理と衝突し、幅広い労働者と住民大衆を
「多様性のもとに統一」できません。
20世紀に私たちは、③レベルの率いる運動が
その崇高な理念にもかかわらず
分裂と対立して民衆勢力を広範に団結させることに
失敗したように見えます。
21世紀型の運動の発展のためには
マルクスの唯物論と観念論を統合した自然主義の立場から
意識(観念)の側の発達レベルを研究課題に
組み込むことが必要だと思うのです。
それは、マルクスの「類的存在」という言葉が鍵だと思っています。
一なる自然の歴史の上に
人間的自然を発展させつつある私たち人類
というマルクスの自然主義=人間主義は
20世紀に私たちが真理と真理をぶつけ合って
反動勢力につけいるすきを与えたことを
繰り返さない
アイディアを提供するのではないかと思います。
マルクスは、
意識存在としての人間と
物的存在としての人間は
一つの存在の両側面であって
分けることができないと
考えていたと思います。

H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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