(This analyse is important to understand meaning of second revolution)

This article is Iran revolution of 1979.
This revolution occurred as result of reform from above by Shar.
This analyse is important to understand meaning of second revolution.

この論文は、1979年のイラン革命です。
この革命はシャ-による上からの改革の結果としておきました。
この分析は第二革命の意味を理解する上で重要です。




1979年のイスラム革命と指導者ホメイニー  (イラン現代史)

(1)自由と民主主義を求めるイラン民衆

Free Iran Now! Support a Free and Democratic Iran (Music)
Free Iran Now! Support a Free and Democratic Iran (Music: Akon - "Freedom") (video inspired by god of star)


このように2009年の大統領選挙をめぐって大規模な民衆運動がイランでおきています。
1979年のイラン革命においても指導者ホメイニーは革命前には、 イランに自由と民主主義をもたらすと言っていました。
1979年の革命は、アメリカに支援された国王独裁を倒す課題を実現したものでした。
国王の「白い革命」路線、すなわち
独裁政治のもとでの上からの西洋的近代化をめざす路線は 農民の地主に対する土地要求に立脚する中国革命型の 「赤色破壊」路線に対抗する意識をもったものでした。
しかし、この二つの変革路線に対して
「黒色反動」とされるイスラム聖職者が
リーダーシップを握る革命がおきました。
しかし、革命に向けた聖職者ホメイニーの言説は
アメリカと支援された国王独裁に不満をもつ
自由主義者、民主主義者、社会主義者、民主的イスラム主義者
のすべてを「多元統合(多様性における統一)」し、
革命に向けた広大な国民的統一をなしとげたものでした。
しかし、革命後、神格化された「ホメイニー」の考えだけが
「真理」ということになって、
聖職者独裁に転化してしまいました。

私たちが、今後、対米従属から解放される
日本民主主義革命を考えるにあたって
政治的党派、宗派から独立した
民衆、市民レベルで運動の
「多元統合(多様性における統一)」
を歴史貫通的に維持することの
重要性を教えてくれていると思います。

(2)革命の指導者ホメイニー

Imam Khomeini biography (Eng)


ホメイニーは、1902年にイスファハンの北西にあるホメイン村で生まれ、
父は生まれて5カ月のときに死んだ。
15歳のとき、聖職者について学び、
20歳のときからイランにおける宗教的中心地であるコムで修業を積み、
聖職者としての声望をあげていく。
1961年に当時のシーア派最高指導者ボルージェルディが亡くなり、
ホメイニーはその後継者候補の一人とみなされるまでの信望を宗教界から得ることとなった。
1963年からパーレビー・シャーは
地主から土地を没収するという
農地改革中心とする「白色革命」を実施する。
ホメイニーは、その改革が1906年のイラン憲法とコーランに反しているとして
反対運動の中心になった。
6月にホメイニーらが逮捕されると主な都市で ホメイニーの肖像をかかげた群衆が政府の建物を襲うなどの暴動に発展し、 200名以上の死者がでた。
このときホメイニーの門下生たちが、ホメイニーの助命嘆願連判書つくった。
ここに名をつらねた門下生たちが1979年のイラン革命後の政治指導者となった。
1964年4月に釈放されたが、10月の国会で アメリカ人軍人の顧問に外交特権与えることが議決されたことを きびしく非難したことで、1964年11月に再逮捕れ、トルコに追放された。
1965年10月に追放先がトルコからイラクのシーア派一番の聖地ナジャフになった。
ここで思索と講義の中でイスラーム革命の思想を発展させ、 イラン国内の反国王運動に影響を与えた。
イランで反国王の民衆運動が高まる中で、
国内にシーア派を抱えるイラクの権力者サダム・フセインにより、
1978年1月にフランスに追放となった。
フランスからホメイニーの説教を吹き込んだカット・テープがひそかにイランに持ちまれ、 イラン中のモスクに宗教組織を通じて配布された。
信者たちは、アメリカに従属するパーレビー・シャーを倒すために戦うことが イスラム教徒の義務であるというホメイニーの教えを聞いた。
1978年、政府系の新聞が「ホメイニーは共産主義者である」という中傷記事を載せた。
コムの神学学校の生徒たちが抗議行動をおこした。
軍隊が出動してこの学生たちのデモを暴力的に鎮圧した。
そのときに70名もの若者が殺害された。
シーア派の伝統では死後40日目に喪にする習慣がある。
以来、犠牲者を悼む民衆の服喪の行進と、それに対する警察の発砲による民衆の死、
そしてまた40日の服喪の行進というふうにパーレビー朝が打倒されるまでの一年間、
服喪の形をとって憎しみを増幅させながら民衆のパーレビー独裁体制への抗議が続いた。
その中でパーレビー・シャーは1979年月16日、エジプトに亡命する。
そしてホメイニーは1979年2月1日数百万の民衆が 街頭と広場で歓呼で迎える中をテヘラン空港に到着し、 15年ぶりに祖国にもどる。
以後、1989年に亡くなるまでイランの聖俗界の最高指導者として生きた。

(2)シーア派イスラムが政治の前面にでた特徴もつ革命

Islamic Revolution Timeline(イランイスラム革命の時系列の映像)


ホメイニーとはイラン革命を指導したイスラム教聖職者である。
アメリカがバックアップしていたパーレビー国王の独裁に対して、 1977年から79年にかけてイランで大規模な民衆運動がおきた。
当時の報道によると民衆のデモはテヘランで200万人、 全土で1000万人という空前の規模であった。
その中で79年1月16日パーレビー国王はエジプトに逃亡し、 かわって2月1日パリからシーア派イスラームの指導的地位の聖職者アヤトラ・ホメイニーが 民衆の歓呼に迎えられて15年ぶりにイランに帰国した。
イランは逃亡前のパーレビー国王が任命していたバクチアル首相の政府に対して、 ホメイニーが首相に指名したイラン自由運動指導者バーザルガーンの暫定政府とが対立する二重権力状態になり、 2月11日イラン国軍の最高指令部が革命側つくことで ホメイニーの指導するイラン革命の勝利は決定的となった。
民衆は「モルグバル・シャー!」(国王に死を) 「モルグバル エムペリヤーリスメ・アムリカー!」(アメリカ帝国主義に死を)を叫びながら、 ホメイニーの肖像をかかげて行進していた。
革命の中心的指導者は、聖職者ホメイニーであり、 彼のもとにイランの民衆勢力は反帝国主義、反国王専制を共通の課題として大同団結して 約一年におよぶ闘争の末にパーレビー・シャー打倒に成功した。
(松尾光喜「イラン革命における宗教と民族」『アジア・アフリカ研究』328号)

この革命の特徴は、シーア派イスラム教の原理が政治の前面にでたという宗教的性格であった。
第一に革命指者としてカリスマ性を発揮したホメイニーは、 シーア派イスラームの高位の職者であり、革命にむけた民衆の動員聖職者が大きな役割を果たした。
第二に革命で大きな役割を果たした非聖職者力も宗教意識に働きかけて民衆を動員した。
第三に、革命運動の高揚過程も宗的形式をもって発展した。
すなわち40日ごとに近親者が死者をとむらうという宗教的慣習にもとづいて、 シャーの弾圧で死亡した人々をとむらう40目が政治的抗議行動として展開し 、数百万人の規模に達し、空前の規模の街頭行動となった。
 第四に、革命勝利後の権力闘争の中で、ホメイニーのイスラーム理論を 自らのもにしたイスラーム聖職者たちが権力闘争に勝利し、 聖職者の指導する政教一致の宗教国家となった。

(3) ホメイニーの訴えはなぜ人々の心に響いたか
20世紀の末になってこのような宗教的革命がおころうとは当時、誰もが予想だにしていなかった。
なぜ、宗教者ホメイニーのもとで宗教的革命おこったのだろうか
革命にむけたホメイニーの訴え
「植民地主義者は、特定の諸民族に対する政治的支配ばかりか 、従属化させた自らの手先を通じて、経済的抑圧体制を押しつけてきた。
そうして、抑圧者と被抑圧者という二つのグループに世界を分割したのである。
一方では、一握りの金持ちが存在し、連中は政治権力を握り、大部分腐敗した放蕩な生活を送り、 他方では何億ものイラスム教徒が飢餓状態にさせられ、すべての健康条件と文化を奪われている。
これら不幸な人々を抑圧と貧困から解放するのはわれわれの義務である。
われわれには抑圧されたものを守り、抑圧者と闘う義務があるからだ。
独占資本主義と闘い、不当な利潤に反対するのはウラマーの使命である。
一握りの略奪者、抑圧者が贅沢三昧の生活している一方、 そのかたわらで他のものが飢えのために死んでいくような状況を、 ウラマーは絶対に容認することができない。」
(ルーホッラー・ホメイニ著・清水学訳『我が闘争宣言』ダイアモンド社)

白色革命による近代化と構造的矛盾の形成

ホメイニーによって倒されたパーレビー国王は、 アメリカの指導のもとに1963年から土地改革を軸とした白色革命という教育改革、工業開発=資本主義化を推進していた。
この近代化改革は、大きな変動をイラン社会にもたらすことになった。
I Knew the Shah - 9分 パート1
(父のレザーシャーの近代化とパーレビー・シャーの近代化思想の背景がわかる)
I Knew the Shah - 17 Jan 09 - Part 1


第一に、国王ならびに国王と結ぶ特権的な階層(軍および国家の上級階層)が ばく大な石油収入で肥え太ったことである。
(たとえば、事実上、国王が所有するパーレビー財団は 17の銀行と保険社、25の精錬工場、8の鉱山会社、 10建設資材工場、45の建設会社、その他製糖会社、ホテル、農場などをもっていた。
イランのホテルのベッド数の7割パーレビー財団が支配していた。)
また、その中でアメリカ資本を中心とした多籍企業が、国内の特権階級と結んで進出してきた。
第二に、伝統的なバーザール(市場)の商人たちは、 近代的な金融機関(銀行)や企業の育成に不満をもった。
またバーザール商人は伝統的で職人的なカーペット・繊維産業と結びついていた。
この階層の子弟たちは、国王の近代の中で登場した近代教育を受けることで、 また欧米に留学して学ぶことで、 一部の特権階級だけが富裕になるアメリカ従属下の近代化に批判的な考えを持つようになる。
第三に、有償による農地改革の進行で一部の農民は土地を手にしたが、 圧倒的多数の農民たちは、耕作すべき土地を失い、都市の貧困層を形成した。
その結果たとえばテヘランの人口は、1956年に11万人だったのが、 1976年には450万人と20年間に3倍にふくれあがっている。
彼らは、西洋的近代化を批判するホメイーの共鳴板となった。
 第四に、国王は、SAVAKという秘密警察をもちいて、 その独裁体制に反するものは徹底した弾圧、恐怖政治をおこなって、 国民の中に国王に対する憎悪を広げていた。
第五に、先進国資本主義の高度経済長の石油安定供給の場所として中東が位置づけられて アメリカの世戦戦略にそって周辺の民族解放運動を鎮圧するイランが中東の憲兵となるように、 ばく大な石油収入は、アメリカからの代兵器の購入にあてられた。
1965年にアメリカからイランへの武器輸出はゼロだったが、 たとえば70年には1億2700万ル、77年には24億2470万ドルへと増加の途をたどっていた。

以上のようにイランは、独裁的な手法で近代化を推進しながら、 一方で国王と結ぶ特権階層とアメリカ大企業が巨額の富を築き、 他方で伝統的なバーザール商人と農地改革により 土地を失った多数の民衆は その恩恵を受けることができずにいた。

ここに西欧と結ぶ国王なの特権階級を批判するホメイニーの訴えが、 イランの民衆に支持される理由があった。

国王の独裁を批判する革命思想としては、 ホメイニーのイラスム理論の他に社会主義思想、欧米型自由主義思想がありえたが、 アメリカが国王独裁を支持しているもとでは、 欧米型自由主義思想は国王に対抗する思想としては民衆の受入れるものとはならなかった。
またソ連、中国が、国王独裁政権を容認したため 社会主義思想もイランの民衆に広く支持されるところとならなかった。

(4)なぜ、イスラムを革命の原理とした二つの勢力の中でイスラム原理主義派が勝利し、イスラム近代派が敗北したのか。

まず第一に、原理主義派のイデオローグであったホメイニーがイスラム宗教革命の象徴としてカリスマ性をもちほとんどすべての党派から絶大な信頼を受け、彼の意志が貫徹する状況にあったこと。
そして第二は、革命勝利にむけた巨大なエネルギーは、「白色革命」による土地改革の展開の中で都市に流出した膨大な元農民層=下層都市民衆の不満によってもたらされたのであるが、イランの農村の生産力段階で陶治された彼らは、近代派イスラムの教義に共鳴する力をもっていず、ホメイニーの教義に共鳴する質をそなえていたことである。
ホメイニーの声は、全国のモスクにテープで伝わり、下級聖職者を通じて、それら下層の部分に徹底してゆき、彼らは強固なホメイニー派の行動部隊を提供する支持基盤となった。

それに対してイスラム近代派の教義は、シャーの近代化政策の中で発達した近代的高等教育を受けた青年たちに共鳴盤をもった。
ところが当時約4割が文盲であったことで分かるように膨大な元農民=都市下層民は、イスラム近代派の主張に共鳴する力を持ち得なかったため大衆動員力と「狂信的」戦闘力においてホメイニー派の力量と決定的な差があった。
また国王独裁打倒が第一義的課題であったため、ホメイニーの非民主的体質については無警戒だったと考えられる。

(5)パーレビーシャーの西欧型近代化に、なぜイラスム教職者たちは反対したのだろうか

イスラムの戒律にしたがって生きることを訴えるホメイニー
「さて、イラスム教徒の知識人-今の若い世代のものたち-を イスラム教から遠ざけようと努力したのは外国人たちである。
彼らの戦略は、われわれを低開発の状態のままに押しとどめ、 われわれを今日あるような悲惨な状態にとどまらせておこうとするものであった。
その目的は、わが国民がイスラム教の戒律に従わないようにするためであった。
イスラム教の戒律は悲惨と貧困の問題を解決できる能力があったのだ。(前掲書)」

イスラム教徒にとって、単に祈るだが宗教行為ではない、
政治、経済、社生活のあらゆる面でのイスラムの規範そって生きることを宗教行為としてもとめる。
だから、イスラム教ではイスラ法シャリーアという法体系をもち、 裁判官としての役割をイスラム教の聖職者が果たしていた。
ところが白色革命は、聖職者から司法権を完全に奪おうとするものであった。
パーレビー国王は次のように書いている。
「父がナポレオン法典にならい司法制度の抜本的な改革を行っていたので、 それまでもっぱら聖職者の手にあった裁判権が非聖職者の手に移され、 改革がその緒についていた。
しかし、この司法制度も、……まだ十分ではなかった。」

そのために白色革命では、完全に聖職者から司法権を奪って、 裁判所にあたるものを数多く設置していった。
また白色革命は教育普及部隊を設置して文盲克服に力をいれた。
しかし、この近代教育の発展も地方の下級聖職者から教育者としての役割を奪い、 聖職者たちの地位を著しく低めていくものだった。
また農地改革の1971年の段階では、 聖職者の財源にもなっていたモスクに寄進されていた土地を 借地農民に売却する法令が出され、 その年12月まで4万7千以上の農家が土地を買った。
白色革命は、財源の面からも聖職者の立場を脅かすのだった。
63年からは女子に参政権が与えられ67年には家族保護法が発布されて、 イスラム法で四人まで許された妻帯(重婚)が禁止された。
これらは聖職者たちにとってイスラム教の教えをないがしろにするものであった。
またパーレビー国王は自らの支配を当化するために イスラム以前のペルシャの文化と君主の栄光の神話的要素を強調したことも、 イスラム教をないがしろするものであった。
たとえば、1971年の建国2500年の式典、1976年のパーレビ王朝50周年記念式典や 1976年3月には議会でイスラム暦に加えて2535年前のキロスの即位を一年目とする「王暦」を決めた。
また教育の中でもイラン代文化の優秀性、 考古学的研究によるイスラム以前の歴史的メモリーを掘り起そうとした。
これらの改革は、イスラム教の聖職者たちを国王の敵においやることになった。
ここに聖職者の中でホメイニーがリーダーシップを握った背景があると考えられる。

付記
(ホメイニーの言っていることもイラン社会がおかれていた事態を 正確に指摘していたから人々の心に響きました。
20世紀までの歴史の民衆運動で 誰もが間違っていたことが一つだけあります。
それはこの世の真理は一つだけしかないと考えたことです。
この世は一つの大きな山登りのようなもので、 自分たちのいる斜面の位置と高さによって見える景色が違うことです。
相手の見える景色を打ち消すのではなてく 自分の見える景色に加えて互いに認識を広げてゆく ことが互いの利益にかないます。
したがって、私たちは20世紀型民衆運動を是としながら それを「多元統合(多様性における統一)」した 世界社会フォーラムタイプの民衆統合の組織を 必要とします。
それは認識の交流と連帯を生み出す場です。
そして歴史貫通的に民衆の社会的自覚を高めながら 権力や財力が人間性のために役立つものにしてゆく 役割を果してゆきます。
そうした会が幅広く組織されてゆきながら 20??年の日本民主主義革命に至ると 思います。
イラン革命の歴史を学び、そんなことを感じます)
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

appeal of gods of star

all H.P. of project of Heaven and gods

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