(Mitsuki thinks that this way to democracy wins as second revolution)

This article is that there was another possibility to way to democracy in Iran revolution in 1979.
Mitsuki argues that way to democracy of Iran was represented theory of Shariati.
Way to democracy of Iran was supported by young people who received modern education.
Mitsuki thinks that this way to democracy wins as second revolution.

この論文は、1979年のイラン革命には民主主義への道のもう一つの可能性があった、です。
ミツキは,イランの民主主義への道はシャリアティの理論に表現されていたと論じます。
イランの民主主義への道は、近代教育を受けた若い人々に支持されていました。
ミツキは民主主義への道が第二革命として勝利すると考えています。




聖職者支配に反対した革命理論と勢力 (イラン現代史)

1979年のイラン・イスラム革命は、
ホメイニーのカリスマ的リーダーシップがあったとはいえ、
ホメイニーとは異なるビジョンをもって革命に参加した人々がいました。
その中には今日の聖職者支配に反対する理論もありました。

(1) ホメイニーの国家構想

ホメイニーの理想の国家構想=ベラーヤテ・ファギー(聖職者による統治)
「マホメットは、啓示を宣べ伝え、
神の真理、法、イスラム教の原則を説明し、
注釈を加える仕事のほかに、
彼自 身がイスラム政府樹立のために没頭した。……
本来、社会における法は、それを執行する人間たちを必要とする。
これはすべての社会に通じる真理である。
イスラム教の場合は、イマームが行政権力を担うことになっているのである。
……
イスラム政府とは、神の法の政府であり、
神の法を研究する学者と神学者の政府である。
その政府について、ファギー(イスラム法学者)が保証を与えるものである
。 執行、行政、計画などすべてのことについて監督するのはファギーである。」
(ルーホッラー・ホメイニ著・清水学訳『我が闘争宣言』ダイヤモンド社 1980年)

ホメイニーは1960年代後半に追放先あるべきイスラム政府の国家形態について
ここに見るような思索を発展させていった。
それはベラーヤテ・ファギー(スラム法学者の統治) ホクーマテ・イスラーム(イスラムの政府)というテーマで追求され、
その中で「政府は、聖者、とりわけファギー(法学者)にまかされるべきである」
という思想を神学の講義で述べるようになっていった。

このようなホメイニーのファギー=イスム法学者が 直接国家を統治すべきという思想の究極の目標は、 聖職者の指導を通じて預言者ムハンマドとイマーム・アリーの時代に存在したイラスム政府を再建し、 イスラム法シャリーアを厳格に実施することであった。

これは神=聖職者が主権をもつ国家構想であり、 国民が主である民主的な国家をめざすものではかった。
では、なぜ、民主主義をめざした人々もホメイニーを支持したのだろうか。

(2)民主的なイスラム社会をめざしたアリー・シャリアティAli Shariati

Dr. Ali Shariati on Role of Leadership in West vs. Role of Leadership in Shi'ism [Eng Subs]
(video inspired by god of star)


アリー・シャリアティは フランツ・ファノンとシーア派イスラムを融合した革命理論を述べた。
今も大衆的人気があるようで、アリー・シャリアティを讃える歌が投稿されている。

アリー・シャリアティの言葉
今、私はアジア、アフリカ、ラテンアメリカの知識人によって 提起されている基本的な問題にたちかえりたい。
「自分のルーツにかえる」という問題である。……
第二次大戦以来、第三世界の多くの知識人は、宗教的であれ、 非宗教的であれ、彼らの社会が自分たちのルーツに帰り、 自分たちの歴史、文化、言語を再発見しなくてはならないことを強調してきた。……
したがって、われわれにとってわれわれのルーツにかえることは 前イスラムイランの再発見ではなく、 イスラムとりわけシーア派のルーツにかえることである。
……
われわれがイスラムにかえるというだけでは充分ではない。
二つのイスラムがある。
一つはカリフ、宮廷、支配者のイスラムである。
もう一つは、人民の、被搾取者の、貧しきもののイスラムである。
どちらのイスラムをあなたは支持するか。
さらに、貧しきひとびとに『関心をもつ』イスラムを支持するというだけでは充分ではない。
カリフも同じことを言った。
真のイスラムは、貧しき人々に「関心をもつ」だけでなく、 正義と平等と貧困の根絶のために闘うものである。
われわれは、宮廷のイスラムではなく、貴族的特権のそれでなく、 正義と真実のリーダーシップのイスラムを、 監禁、停滞、沈黙のそれでなく、 自由、進歩、自覚のイスラム、闘うもののイスラムをもとめる。
(Ervand Abrhamian,Iran between two revolutions,Princeton:Princeton University Press)
非聖職者であるがイスラム精神を国王打倒のための 国民の団結原理においてた「イラン自由運動」のメンバーにアリー・シャリアティがいる。
彼は、近代教育を受けた青年たちに圧倒的に支持され、 イスラム革命勝利に大きな役割をはたした。
シャリアティにとって依拠すきイスラム教とは保守的反動的イスラム教ではなく、 被支配者のイスラム教であり、正義と平等のために戦い、 イスラムを通じて自由と進歩を勝ち取ろうとしたものであった。
彼は革命の勝利直前に亡くなった。

(2) バニー・サドル

同じく「イラン自由運動」のメンバーに、初代大統領になったバニーサドルがいる。

Womens rights and the first president of Iran [The Colonial Imaginary part 2.5]
(video inspired by god of star)


彼は、1979年の「イスラム共和国声明」で
「すべてのものが全員に責任をおっている。
すべてのものが全員のイマームであり、ガイドである。
これがわれわれの宗教がそのメッセージとしている社会のタウヒード(理想状態)である」
とめざすべき社会を位置づけ、
特定の指導者、聖職者が支配しない民主的な国家体制をイスラム教の枠内でめざしていた。
バニーサドルにとって、国王の独裁にとってかわって聖職者の独裁があってはならなかったのである。

追放されてからのバニーサドル元大統領のホメイニー批判
 「ホメイニーは、イスラムは法の上にあると人々に語っていた。これは、行き過ぎのあらゆる形態に道を開くものだった。
イスラムはもっとも大切な優先性をもつものではないと述べることが危険になった。
私が主張している人間的、進歩的、寛容のイスラムは、 今や彼に敵対する極にあった。
私は、彼らが実践しているイスラムの本質を説明することを求めることで ムッラーたちをまごつかせた。
もし、自由、独立、進歩への道でないのなら、それは何なのか。
彼らはイスラムの本質を空虚にしたがゆえに答えるべきものをもたない。
それは今やただ最高指導者によってのみ具体化されている。
彼のしばしばの180度の変転にもかかわらず、 彼だけが、何がイスラムであり、何がイスラムでないかを決める。」
(Abol Hassan Bani-Sadr,My Turn To Speak,the Revolution & Secret Deals with theU.S.,Brassay's(US),A Macmillan Pu blishing Company)

(4)
このような民主主義的なイラスム体制をめざした人々が、なぜホメイニーを支持したのだろうか。
ホメイニーは、大衆的には、アメリカとパーレビー・シャーの批判に重点をおき、 革命勝利までは、イスラム国家の内容について自己の見解を明確にして 他のイスラム革命グループと意見が対立するようなことは自覚的に避けていた。
とりわけフランス滞在中に発表され彼の声明は、 西洋で教育を受けたバニーサドルらの知識人のアドバイスにより民主的トーンをもっていた。
そのことがバーザール商人からインテリゲンチャ、都会の貧困な人々までの幅広い階層、 また宗教的な「イラン自由運動」「国民戦線」との統一戦線を成立させることになった。
ホメイニーは、イスラム精神をもって国王と闘う勢力しかみとめなかったので、 ツーデ党やフェダーヤーネ・ハルクなど無神論の左翼勢力を認めなかったが、 左翼勢力は、ホメイニー以外に国独裁を倒す指導者はありえなかったためにホメイニーを支持せざるをえなかった。

Siavash Kasrai leader of Tudeh Party
(video inspired by god of star)


その意味で1979年のイラン革命勝利の時点は、 ホメイニーのリーダーシップのもとに 事実上反アメリカ帝国主義、反パービー・シャー独裁に結集した諸勢力の統一が成立したのであり、 イラン社会の民族的民主的課題の実現を大きく前進させうる可能性を持つものだった。

(5)革命後のホメイニー派の権力獲得過程

革命勝利直後の革命政権は、 非聖職の宗教的革命派と聖職者との連合政権性格をもっていたが、 バーザルガーン相が失脚させられ、 ホメイニー派の聖者を主体とする革命評議会が行政の全権を握った。
さらに79年12月の新憲法法の国民投票に、 聖職者ホメイニーを大領以上の最高指導者とすることに 批判な穏健派シャリアトマダリ支持者と聖者が国家運営をしていくホメイニー派の間に対立がおこり、 その支持者の間激突がおこった。
シャリアトマダリがおれて、 最高指導者ホメイニーに絶対的権力を与える憲法が成立し、 イスラム聖職者政治を徹底するイスラム原理主義の路線が勝利していった。
新憲法下の1980年1月の大統領選挙で、 イスラム教の原理の枠内でより自由で民主的な改革を進ようとするバニーサドルが当選したが、 彼も神権政治路線の徹底の中で失脚していった。
また革命運動の高揚の中で支持をひろげた左翼諸勢力も この過程で弾圧されていった。
中でももっとも早くからホメイニー政権を 国王にかわる新たな独裁の開始だとして批判したモジャッヘデーン・ハルク(アリー・シリアティと同じような思想) というイスラム革命組織は失脚後のバニサドルと組み、 イラクとの国境地帯を基礎に民主的な政権めざして武力闘争に突入した。
(後、バニーサドルはこの派と離れた)

Demonstration Iranians in Stockholm in support of Mojahedin
(video inspired by god of star)


革命指導者としてホメイニーは、革命前は超党派的支持を得る努力をし、 実際に支持をえ、革命に勝利する段階では バーザルガーンやバニーサドルら非聖職者知識人に依拠した。
しかし、獲得した国家を維持、運営していく段階で、 自らの思想に忠実な弟子たちを用いることベラーヤテ・ファギーを実現していったのである。
バニーサドルによるとホメイニーは
「聖職者体制を打ち立てるため5万人の人々を処刑しなければならないとしたら、 われわれはそれをするであろう」と言ったという。
実際、ベラーヤ・ファギーに反対した人々約10万人が殺害されたと モジャッヘディーンなど弾圧された側は述べている。

 実は、ホメイニーは、民主派を裏切ったのではなく、 最初からベラーヤテ・ファギーの理念にもとづくイラスム聖職の政府をつくることが彼の目標だったのである。

イラン革命は 「イスラム革命は、絶寸前の伝統的階級による生き残りをかた荒々しい叫びである と同時に近代的階級によるより大きな政治参加をもとる不運な企てだった。
それは、パフラビー朝によって民衆に課せられた根本的で急速な変動への帰結に対する 彼らの閉込められていたフラストレーションと不満の爆発である。
それゆえにイスラム命は二重的性格と国民的性格をもっているのである。」
(モフセン・ミーラーニー)

それゆえにシャー権力の崩壊後、国家支配をめぐり厳しい闘争がはじまり、 最終的にイスラム原理主義者が勝利し、帝政イランはイスラム・イランとなったのである。

(6)
ホメイニーは少数民族や国内のシーア派イスラム以外の宗派にはどういう態度をとったのか
「宗教面においてもイランは多様である。 まず、大多数のイスラム教徒に対して 、少数の非イスラム教徒に大きく別れる。 非イスラム教徒の内訳は、約11万人のアルメニア教徒、 約13万8000人のネストリウス派とカソリック派を信じているアッシリア人、 約3万2000人のユダヤ教徒、イランの古代宗教であるゾロアスタ教徒が2万人いる。
イラスム教徒の人口は、多数派のシーア派と少数派のスンニ派に分かれる。
ス ンニ派のイスラム教徒は辺境の部族、 とりわけクルド人、トルコマン人、ア ラブ人、バルチ人、ハザル人に多い。
さらに多数派であるシーア派イスラム教徒も、 十二イマーム派として知られる主流派と他の多くの非公式のセクト、学派、分派とに分かれる。
イラン革命後の共和国憲法でこの十二イマーム派が国教と定められた。
(Ervand Abrhamian,Iran between two revolutions,Princeton:Princeton University Press)

アメリカに支持された国王の独裁体を倒すための国民の団結原理として シーア派イスラムの精神が歴史の前面に出て民衆を動員することになり、 ホメイニはその革命精神を体現したものとなった。
そのことはシーア派イスラム以外少数民族、宗派の人々にはどういう意味をもっただろうか。
主としてクルド人場合を中心にとりあげてホメイニーの態度を見てみよう。
イランの約350万人のクルド人の大半は、スンニ派イスラム教徒である。
ホメイニーは、革命直前、パリからクルド人に反シャー闘争のために団結をよびかけ、 シャー打倒後にはクルド人に自治与えると述べていた。

1979年2月に革命が勝利するとクルド人は、 「イランに民主主義を、クルデスタンに自治を」要求した。

ところがスンニ派が大半を占めるクルド人は、 パーレビー・シャーの抑圧体と闘う点ではホメイニーらと一致していたが、 シーア派イスラム聖職者が権力にぎった時点で対立することになった。

Ayatollah Khomeini on Kurdish separatist movements
(video inspired by god of star)


イスラム共和国の憲法案の第一三条が国教をシーア派十二イマーム派に定めており、 スンニ派としては許すことができなかった。
12月のイラン・イスラム共和国憲法案への国民投票もクルド人のほんど全人口によってボイコットされた。
クルド人たちは武器をもって戦ったが、 ホメイニーの政府によって武力鎮圧されてしまった。
ほかのバルチ族などの少数民族の要求も同様に鎮圧されてしまった。

Kurdish group vows long fight with Iran - 02 Oct 09
(video inspired by god of star)


  〔参考文献〕
ハインツ・ヌスバウマー『ホメイニー 社会思想社 1981年
ルーホッラー・ホメイニ著・清水学訳『我が闘争宣言』ダイヤモンド社 1980年

(後書き)
イラン革命とその後を考えるとき
私たちが民衆、市民社会の中で
非暴力、平和的原則のもとに
「多元統合(多様性における統一)」
の担い手が増えてゆくことが
必要だなあと思いました。
さらに、神と人間を分離せず
すべての人間を神のあらわれとみる
アリー・シャリアティやバニー・サドルの
ワンネス思想から学ぶ必要があると思いました。
彼らが勝利していたら
今日の聖職者独裁はなく
民主主義的なイラン社会の運営が
なされていたと思います。

(参考)
国王独裁と闘った親ツーデ党系作家
児童絵本作家 サマド・ベヘランギ
life of Samad Behrangi
(video inspired by god of star)


映像でベヘランギの思想、作品の雰囲気、人柄が感じられると思います。
(小学校の教師 革命前に亡くなった有名な作家 
国王政府の秘密警察SAVAKに殺されたとあります)
Samad Behrangi - Samad Dar Ghalbe Man Ast (2)
(video inspired by god of star)


 
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

appeal of gods of star

all H.P. of project of Heaven and gods

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